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118「犬の心臓」ブルガーコフ

201グラム。犬に人間の脳下垂体と睾丸を移植する話であり、この際あまり心臓は関係ないのだが、タイトルは『犬の心臓』である。
 そして実は睾丸を移植した理由もなんだかよくわからない。学問一筋で名声を得た独身の老教授と、その教授を尊敬するハンサムでやはり独身の助手が二人でたいして説明もなく犬に人の睾丸を移植する。君たち何やってるの。

作品は、犬の一人称語りではじまる。名前はまだない。

 ウォウォーン!ぼくをみて。死にそうだよ。門扉のすきまから吹き込んでくる吹雪の唸り声が、まるでぼくのために臨終のお祈りを唱えているみたいだ。ぼくも一緒になって唸り声を上げる。ぼくはもうおしまいだ、おしまいだ!

 ほんとうにかわいそうな犬で、物資不足の革命期モスクワで飢え、人間からいじめられた火傷のせいで寒さの中で死にかかっている。
 それでも、注意深く読むとちょっと芝居がかってもいる。「ぼくをみて。死にそうだよ。」というアピールから入るのは、本人が言うよりは余裕と計算高さがある。それが証拠に、この語りはお粥がまずいだの、きのこがまずい、だのという話になっていくのである。そしてはっと思い出したように急に話かけてくる。

みんなは尻をブーツで蹴られたことはないの?ぼくはあるよ。あばら骨に煉瓦を投げつけられたことはあるかい?ぼくはいやというほど喰らったよ。

哀れをそそるけど、変な文章だ。「みんな」って誰だ?いきなり立場のわからない犬から話しかけられている。
 つまり、これは後に読み書きができるようになった犬がしたためた手記を読んでいるってことかな、と思ったりするが、この一人称語りは意識が遠のくようにいつの間にかすーっと消えていき、気が付けば三人称の文章になるのだ。同情をひくためにテキストをつきやぶってぽろっと出てきてしまった感じの唐突な「ぼく」と「みんな」の対話である。彼はアピールのうまい犬なのだ。

 そして特筆すべきは、犬だけあってとにかく社会の序列を見ている。誰が同志(タバリシ)で誰が紳士(ガスパディン)で誰がプロレタリアか。誰に気に入られれば安全に過ごせるのか、全部観察して知っている。相当に頭がいい。弱いものは見つけ次第噛みつくことを旨としている。そしてそんな自分に「犬の奴隷根性」と、ツッコミを入れる知性も持っている。

 そんな犬が、若返りを研究する教授に拾われ、人間の脳下垂体と睾丸を移植された。人間化がはじまる。
 それまで彼の脳の中に沈黙のままストックされていた「街にあふれる罵り言葉」が脈絡もなく関を切ったようにほとばしり出る。教授の住居の近所で行われるプロレタリア集会から聞こえてくる革命陣営のスローガンも自然と吸収していく。

 コロフと名乗りはじめた彼は、見た目も、言動も思考もグロテスクだ。言葉遣いが悪く、マナーを知らず、猫を虐待するのが好きで、女性にだらしなく、酒癖も悪い。そしてついにドクターの我慢の限度を超えたために、元に戻す手術をされてしまうのである。
 巻末の解説によると、「犬のコロが人間のコロフに変身する話は、『新しい人間』の創造という共産主義の夢を寓話化したもの」ということになる。

 生き物の一人称語りではじまる文学と言えば『吾輩は猫である』が染みついている身の上にとっては、コロは、ずるくて品がないかもしれなが、とにかく可哀そうだ。
 彼は犬のときも、人になってからも、ずっと友達がいない。いろんなことを理解し、言葉もわかるのに、分かっているということを人間には伝えられない。いざ人間化が進んで話せるようになってみると、彼が学んできた言葉が創造主のコードに合わない、という理由で敵視される。どんな肉体になっても、彼の言葉はいつも誰にも届かない。

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