Q: 3年程前から、瞑想をはじめています。 しかし、思考が止まることは無く、自我まみれです。 無我の境地にはどうすれば到達できるのでしょうか? A: 無我の境地とは何を指して言われているのでしょうか? 単なる思考が無い状態を指しているのでしょうか? 自我の感覚が無くなった状態を指しているのでしょうか? 無我の境地は誰が到達できるのでしょうか? いずれにせよ、無我の境地に到達した「私」がいる気がします。 到達した「私」、到達できない「私」がいる気がし
Q: なんども質問されたと思うのですが、自由意思はあるのですか? A: 確かによく聞かれる質問ですね。 自由意思はありません。 自分でどうこうできる事はありません。 どうこうできる「自分」がいないのですから。 多くの人は、「主体者」である自分がいて、人生を自分がコントロール、選択をしていると 思って生きていると思いますが、 自分が人生をコントロールしている「思い」が起こっているだけです。 さらに、自分という感じも、ただ起こってきているだけです。 脳科学的に
Q: 私は昔から、本屋さんに行けば自己啓発コーナーに真っ先に寄るほど、 向上欲、更に良くなろう、良く良くなろうとしてしまいます。 どうすればゴールに到着して、落ちつけるのでしょうか? A: あなたが向上しようとしているのではなく、 向上しようととする思いが起きてきているだけです。 向上しようとすることが悪いわけではないですし、 向上しようとする「主体者」がいないところで、向上しようとする思いが、 意味もなく、勝手に起こってきただけです。 実際には向上しよ
A: 最近、仕事関係、家庭問題などなど、問題だらけ、悩みだらけの人生です。 どこから解決していいかさえもわからない状況です。 悩みのない人生になるためには、どうすればいいですか? A: 現状はなかなか大変そうですね。 具体的には人生相談のカテゴリーの人達に譲りますが、、、 ここでの話は、悩んでいるのは「誰」ですか? 「誰」が悩んでいるのですか?という話です。 悩める「主体者」がいないということです。 仕事関係で、問題があり悩んでいる、「悩んでいる」という思い
Q: 親や、世間の価値観、常識などいろいろなことから、自由になりたいのですが、 制限のない「真の自由」とはどんなもので、どうすればなれますか? A: 制限は、起こる誰もいないところで、制限という思いがただ起こっているだけです。 ということと同じく、 自由も、誰もいないところで、自由であるという概念、思考がただ起こっているだけです。 「私」「あなた」「誰か」が制限されているわけではなく、私が制限されているという思いが、 私がいないところで勝手に起こっているだけ
Q: ズバリ「探究」は、どうすれば止まり、ますか? 本を読んでも、瞑想しても、いろいろなスピーカーさんのセッションを受けても、 そのあとは、明らかになった気になるのですが、気がついたら、また探究している 自分がいます。 A: ズバリ探究は、止まりません。止まる誰かはいません。 意味も価値もなく、ただ探究が起こっているだけです。 探究が止まる、止まらないに価値はありません。同じことです。 ただ、探究している誰も居ないところで、だれにも向かうことなく、 探究が起こっ
Q: 私は子どもの頃から、自己否定が強く自信がなく、周りの人の目が気になってオドオドしています。 自己否定感はどうすればなくなり、自己肯定感をもって生きていけるようになりますか? A: 子供の頃から、しんどかったでしょうね。 回答としましては、自己否定をとことこんしてみる。限界まで否定してみる。 どこまで否定できましたか? 否定できるということは、否定する価値があるということです。 ほんとの否定は否定する価値もないということです。 まだまだ価値があるということです
Q: 「私」がいないと、よく言われますが、意味がよくわかりません、わかりやすく説明してくださいますか? A: 子供の頃は、サンタクロースが、クリスマスイブの夜、プレゼントを持って来てくれると、完全に信じていましたよね。実際プレゼントももらいましたよね。 それが小学生高学年?くらいのときに、サンタクロースは想像上のもので、プレゼントは親が寝ている時に枕元に置いていてくれたんだ。 と、一旦理解したら、、 2度とサンタクロースは、実在するとは思えないですね。 まさしく
今回も以前頂いた質問から、、 Q. 解放されている時と、また「私」が戻ってきてしまう時が、交互にあり、グレーゾーンにいるような感じなのですが、このような時はありましたか? A、 グレーゾーンにいるような思いが、ただ起こっているだけです。 解放される「誰か」、 グレーゾーンにいる「誰か」 は居たことはありません。 解放されて「私」がいないという思いが起こって いるだけであり、再び「私」が戻ってきたという 思いが、ただ起こっているだけです。
解放の前と後の違い。 解放の前と後の違いとは、何が違うのだろうか? 解放とか、悟りとかの話しを聴いて、 理解したい、分かりたい、と「私」が熱望して探求を続けていて、、 「私」が理解したい、分かりたい。 か、 「分かりたい」がただ起こっているだけ。 前後の違いを、表すとすればこの一点だろう。 しかし、これも方便で、「ストーリー」上の話であり、 実際には、前後の違いはありません。前後もありません。 ずーっと、「私」は居た事はなく、 ただ起こっているだけである
主体がない世界とは、 「明らかになった」誰かはいないのですが、方便の話になると思いますが、 その前後で何が違うのはか? 前後において、起こってくる事は、違いはありません。 思考、感情、出来事、など、何一つ違いはありません。 よく質問に出てくるのですが、、唯一の違いは、何か? それは、 「明らかになった」前と後とで、何が違うのですか? です。 ズバリ! 起こってくることを、問題とする主体者がいるか、いないか、、。 起こってくる事は、変化はないのですが、それ
今回は、Q &A コーナーとしまして、 頂いた質問の中から、、要約した内容を、、 Q: 《 悟り、非二元、ノンヂュアリティなどなど、すでに15年以上探求を続けているのですが、 どのようにすれば悟りを開けるのでしょうか? 》 という質問に対して、 A: ズバリ、 「私」が悟ることは不可能です。 悟ることができる「誰か」は居ないし、今までも居たことありません。 「悟りたい」「解放されたい」というのは思考です。 同じく、、、悟りたい、悟ることができる「私」「自
久しぶりの投稿になります。 今回は、釈迦が説いた仏教の柱のひとつである、諸法無我について、 無我の「我」の意味とは、何を指しているのか? 自我、エゴ、私の肉体、魂、自分、自分自身、、、 一般的な自分という意味でしょか? 諸説あるようですが、、、 「常一主宰」という意味の「我」がない、、という事らしい。 宇宙とか人生とかを、コントロールする、誰かが居ない、無いと言う意味である。 つまり、行為者、実践者、体験者が居ないということである。 自我、エゴ、自分という感じ、
心身脱落 多分禅の言葉かと思うのですが、 「私」が落ちてしまい、例えるとザルで水をすくっているような感じである、、のようなことをかなり昔に書籍で読んだ記憶があります。 はやくザルになりたいと思って読んでいたのかもしれません。 でも最近、ふと、 非二元視点からすると、 ザルが残っているし、すくっている誰かがいるのでは? と思ってしまった。 ザルもすくっている誰かもいないし、 ただ、起こっているだけ、、 すくっている「私」というイメージ、「私」という感じ、思いが起
超高性能人型AIロボット 最近のロボットはかなり高性能になってきている。 そこで、解放とは何か?の説明を最新鋭のロボットにたとえて説明してみたいと思います。 今後更にさらに高性能になり、AIも駆使をして、ほぼ人間と同じAIロボットが出来上がったと仮定します。 身体感覚、皮膚感覚も高度なセンサーにより、感じる。 AIを駆使して、記憶、思考、感情も感じる。 それぞれの個体によって、キャラクター、気質もプログラムされている。 ほぼ人間と同じである。 唯一違うのは、プ
《 あなたのワタシはウソである 》 (大野龍一:著 ナチュラルスプリット: 刊) 最近上記の書籍を読んだ。その書籍の中で自我意識を創り上げていく仕組みについて、上手く表現されているので、 一部抜粋させて頂きます。 …………………………………………………………………………. ………………………………………………………………………… (ここから抜粋 ) 人間の脳は、ある種の生物コンピューターのようなもので、入ってきた情報を一元管理するための