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民主主義はなぜ崩壊したか

【20年前の民主主義】
20年前までの民主主義は、前提として、間接民主制がある上で、政治の専門家を選挙で教育を受けて一定以上の知見を持った人が選ぶ、ということが前提だった。しかし、その前提は崩れたのではないか。

【今やどこの国でも】
民主主義と名前はついていても、今や多くの地域では、ときの政府の言うこと以外は弾圧するか、それに近い制裁が加えられる国や地域が多くなり、ところによっては「民主主義はもう古い」ということをはっきりと言う人も現れてきている。実際にそうであるかどうかもさることながら、既に100年くらいの歴史を持つ「社会主義・共産主義」対「民主主義」という対立構図を持ちつつ、一方でその片方の「民主主義」がなくなったら「社会主義・共産主義」しか残らないだろうと思うが、そういう議論もまたあるのを見たこともある。

それはともかく、本noteでは、このうちの「民主主義」だけに焦点を当てよう。

【知識と能力の階層的分断】
実際には、教育による知識と能力の経済的な階層分断が起きた社会において、この社会における対立は社会内部的、あるいは地域的なものとして表面化している。そう考えると、問題の中心はこの対立の解消だが、それは富と明確に関連付けられているがゆえに、なかなか解消しない。この対立の解消には、富の平準化が不可欠なうえに、不可能であるので、現状の社会そのままでは解消しない。「富めるものはお金以外のものも持つ」のだ。

【インターネットが壊した垣根】
インターネットは「富める者」と「貧しい者」の垣根を取っ払ったコミュニケーションのフィールドでもある。地域もまた同じようにインターネットが垣根を壊した。残る言語の壁もなくなりつつある。現代のスマートフォンでは、音声SNSとして一時有名になったClubhouseで、外国のコミュニティのルームに入り、外国語のやり取りをリアルタイムで翻訳アプリを使って日本語で翻訳して聞くことができる。今でもやり方を覚えれば、加えて自分が話す言葉も外国語に翻訳して発言できる。

【使いやすくなればなるほど】
IT機器は短い間に発達し使いやすくなった。一方でそれを作るには複雑な仕組みが必要であり、より高い専門教育が必要とされることも多くなった。これによって、IT機器の開発者と、利用者の対立も起きてきた。それは富む者と持たざるものの対立の部分なのだろうか。

【「人はみな教育すれば賢くなる」という前提】
「賢くなる」とは、ここでは「論理性を体得し論理によって自らの行動を律し感情に流されずに物事を個々人が判断し実行するようになること」であるとし、この人間個人の状態は「現代の教育によって、達成されるもの」ということがポジティブな前提になっているだろう。しかし、人の全てがそうなるわけではなく、多くの人は教育を受けられない。素地はあっても教育がなければそういう人は育たない。そして気がつけば、教育の行き届いた場所とは、即ち経済的豊かさに溢れる地域である。世界が全体として貧しくなってきたら、そういう地域は当然減る。

しかしながら現代の民主主義は各々立場は違うにしても「賢い人」が多く社会を構成していく、という前提に立っていた。しかしそれはどうやら幻想であった、ということなのだろうか?と、最近は考えている。

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