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「愛がなんだ!ってんだコノヤロウ!!!」プロローグ&第一話【長編小説】

あらすじ
舞城まいじょうユキヨは、本屋で偶々同じ本を取ろうと手が重なった、同僚の未駒みこまたまきに、その瞬間恋をした。
けれど、彼女は彼に何の感情をないままに、たった一度の運命のイタズラがキッカケで、気まぐれに付き合うことになる……。

舞城ユキヨは、未駒たまき、桝元ますもとユキノ、胡田こだイチカ、巻波まきなみあすか、及川おいかわトウリ。

複雑に絡み合った五人の女性達との関係に、振り回され、時に振り回しながら、愛という、複雑怪奇な感情に朴訥ぼくとつに立ち向かっていく。

未駒たまきの湿気り切った恋愛遍歴を飛び越えて、主人公の舞城ユキヨは、全力の恋愛小説を生み出すことが出来るのか!?

「愛がなんだ」を巡る、鬱憤と激情の、馬鹿で阿呆な、直情型片想い恋愛小説!!


・プロローグ


 SNSでバズってるカップルの痴話喧嘩動画を、カフェのテラス席に頬杖ついて、クリームとソース盛り盛りのフロートの山に刺さったストローに口をつけて、彼女はボンヤリ眺めてる。すっごい剣幕で罵詈雑言捲し立てて彼氏を引っ張たくのかな? って感じにゆっくり近づくとお互い渾身の力で抱きしめ合う。ベタだけどつい見ちゃう系のネットにありふれた展開。
 彼女はそんな動画を見ながら黄昏気味に、こんな感じの激しい恋愛したいな……。なんてぼやくから、俺は「ないない。そんな言い合い生涯しないから」と呆れるように言って、クライマックス直前で再生を止めた。
 なあんだよ! こっからがいいとこなんだよ! と、彼女が言うと、俺は、そんなことよりも今を楽しも! って言ってから、そっぽ向いて話題を変える。彼女はそんなことって何だよ……って、拗ねた顔をしながら、仕方なく俺の話題に付き合おうと姿勢をこっちに向けた。

 俺は彼女の気を逸らす為に「んー。今週仕事詰まってんだよね」なんて、ボソッと呟くと、彼女はそれを聞き逃さずニタリと笑って、フロートに刺さったストローをクルクル回しながら、「まいちゃんは明日予定空いてるの? 夜とか?」と聞いた。
 俺はスマホのカレンダーを眺めながら、「明日は……空いてる! 空いてる? 空いてるはず……!」と、ぎこちなく答えた。
 明日は16時から喫茶店で打ち合わせが入ってて、正直何とも言えない。
 まぁ多分一時間以内に終わる。先方がグズらなかったら即終わる案件なはず。
「たまちゃんは明日空いてるんだ。夜。珍しいね」と、はぐらかす為に目を丸くした表情を作って戯けてみせて彼女の顔を見る。
 彼女はそんな俺の思惑を見透かして、俺のスマホの画面を目を細くして睨みながら、
「あー……。なるほどね。矢作さんトコの会議か……。間に合わねぇぞこりゃ」と、俺の戯けに被せてコミカルな口調で述べた。
「いやいや! 終わらせます! 絶対に終わらせてやる! 定時にはサッとパッと帰る。これ社会人の基本だから! 全然問題ないですっ!」ムキになって言い返す。
「そう言ってまいちゃん何度かドタキャンしてんじゃん。ホントバカだよねっ」と口を尖らせると、付け加えて、
「まぁー、そこまで啖呵切って言うなら、アタシも明日はちゃーぁんと夜遅ぉーくまで付き合ったげるよ」と、俺の表情の変化を楽しむ様に、少し小馬鹿にした口調で言い「まっ、でも無理かなー。舞城クンには」と、顎を尖らせながら頬杖を付いて、無理でしょうねのジェスチャーをした。
 俺は彼女の態度にムッとして「滅茶苦茶バカにしてるっー! やってやんよ! たまちゃんに揶揄われて黙ってられる訳ないっ。明日は定時……いや、定時前に終わらせて17時に待ち合わせだ! そう! それで!」
 ムキになって鼻息荒げて話す俺の様子を面白がって、キャハハと少女の様に笑うと、
「まぁそうムキになんなって! 別に、他の日にしてもいいんだからさっ!」と、俺の背中をドン! っと平手打ちした。
 思いの外、勢いが強くて、飲んでたコーヒーフロートのストローが喉に刺さりそうになって、
「痛った! ちょっと! 溢れちゃったじゃん! スーツにかかってない? シャツは?たまちゃん見てくんない?」って、ジャケットのボタンを外して、ハタハタと裏表を確認する為にジャケットを動かすと、彼女と一緒にスーツとシャツの胸元にくまなく目をやった。
「やり過ぎた! ゴメンゴメン……! 見た感じ大丈夫だって! ホントに……バカ……いやいや、面白いね。まいちゃんって」と、大きく笑った。
 ニヤっと笑いながら、何だと! って顔で俺は応戦すると、たまちゃんは益々笑いが大きくなって、喫茶店のテラス席一帯から面する道路と店内にいる従業員にまで届く程の笑い声で笑うから、俺が口元に人差し指立てて注意して、たまちゃんは肩をすくめて、二人はヒソヒソ話をするみたいに肩を丸めあってニヤつきながら、まるで子供の様にクスクス笑い合った——。



気まぐれの女神は「愛がなんだ」と僕に問う

 夕時頃、新宿の本屋で文庫本を手に取ろうとした時に、偶々手が重なったのが彼女だった。
 名前は、未駒みこまたまき。
 お互いハッと手を離し、譲り合って顔を見合わせると、同僚の未駒さんだった。
 その時は「あっ……すんません」と軽く赤面しながら首の裏に手を回す俺を見て、彼女は軽くフフッと笑い、
舞城まいじょうクン。こんな本読むんだね」と本に目をやった。
「愛がなんだ」
 この本に特別な興味があった訳じゃない。
 この本を原作にした映画を観たから、ついでに読んでみようかな……って。会社から遠回りのルート選んでまで、こうして本屋に赴き、作者名を探して。
 日頃、本を読む事のない自分には慣れない作業で、本棚の端から端に目をやるのは、仕事終わりの疲れた体にはしんどかった。
 そんな時、ようやく角田光代かくた みつよの「愛がなんだ」の文庫本が目が入った。
 他の本とは少し違う柔らかな書体の背表紙に惹かれるように思わず手が伸びた。俺は沈黙が怖くて思わず、
「未駒……さん、は、こういう恋愛もの? よく読む……の?」と聞いた。

 ——未駒たまきさん。とは、会社の同僚で部署も近いけど、話した経験は、一、二度、あるかだったと思う。

 コピー機の不調で印刷用紙に太っとい縦線が入った時に、マジかよ……と小さく呟くと、彼女が後ろからすす——と現れて、「最近、調子悪かったんですよねー。多分、業者さんに来てもらわなきゃだと思うんで、連絡先……。確か、業者の連絡先書いたシール壁側だったはずです。ちょっと傾けないと見えないと思うんで手伝いますよ」と、声をかけて貰ったのが一回。

 二回目は、昼休憩中に社内の自販機横のベンチで缶コーヒーを啜ってた時に、廊下を通り過ぎようとした未駒さんが、二、三歩、足を戻してこちらを向くと「舞城クンってお酒飲めるんだっけ? 今日飲み会あって、人足りないな……って感じなんだけど。どう?」と、視線をちょっと離して、飽くまでも、とりあえず声をかけておこうという感じで話しかけられた。話しかけてもらう嬉しさと、数合わせかよ——って、虚しさと。
 その時は昔馴染みの寄り合いに誘われて来い来いしつこく連絡されてたのもあって「あーっ……。ごめんなさい。ちょっと……先に飲みの誘いが入ってて……。行かなきゃマズいって感じなら行きますけど、どんな感じです?」と尋ね返したら、一呼吸置いて社交辞令的に「うーん……。ならムリしなくていいよ。お友達にも悪いからね——」と言って、何もなかった様に廊下を過ぎ去って行った。
 それが二回目。その二回以外、これといった交流はなかったはずだ。

「あたしは映画観て、いいなぁって思ってね……。恋愛映画とかは観るけど、小説はあんま読まないかなぁ……」
 未駒たまきは「愛がなんだ」の文庫本を手に取ると、パラパラっと捲りながら言った。
 彼女は本を読む訳でなく、眺める様にページを捲った。目の前で立ち止まって本を読む姿に、ドギマギして、「あ……。えと……」と言いながら、もう一冊ないかな?と、棚に目をやると「愛がなんだ」があった場所には隣の本が立て掛かって隙間を埋めていた。
「あー……。在庫ない……のか。じゃあ、未駒さん……どうぞ」
 俺はハンドサインでどうぞと合図する。
 だが、未駒たまきは俺の言葉を聞き終わると、本を——今まで捲っていた「愛がなんだ」の表紙を向けて俺に差し出した。
「どうぞ」そう言って俺の手元に押し付けた。
「いや……! いやいや。未駒さんどうぞ……! 俺はそんな読みたい訳でもない……っていうか……。んと、他の本屋で探すから、大丈夫ですよ!」
 突き出された本を手の平で押し返すと、赤面を隠すように片手を首の裏に当てて肩を竦めてみせた。
「うーん……でも、舞城クンが持ってて。私は今読んだから。それに読みたくなったらさ、舞城クンに借りるから」
 彼女はニコリと微笑むと、ハンドサインで広げた掌の指と指の間に挟み込むように、本を——俺に手渡した。
 彼女が捲った本が手元に残ると、彼女は、じゃあまた会社でね。って一瞥して何事もなかった感じに立ち去った。

——家に帰ってから「愛がなんだ」を読んでみた。やわらかい文体でまっさかさまに土気色に落下していく恋愛。複雑な気分で文字を追っていると、どんどんと不思議に思えてくる。
 なんで彼女はこの本を手に取ろうとしたんだろう。ハッピーエンドとはいえない柔らかさを秘めたこの本をじっと見つめながら。
 未駒たまき——。彼女はあの時、何を考えてたんだろう。そればかりが頭を行ったり来たりして離れてくれなかった。

「未駒さん……よかったら……俺と付き合ってください!」って告白した。
 一週間後。未駒たまきの前で腰を90度曲げてお辞儀しながら右手を差し出して。
 あの出来事から毎日、読むでもなく「愛がなんだ」の、ページをペラペラと捲っては思い出していた。
 未駒たまきが俺の前でページをペラペラ捲って、俺に差し出した。その時みせた笑顔。微笑みが頭から離れなかった——。不思議だけど、あの瞬間にときめいた。胸躍った。言い知れぬ奇蹟を感じた。馬鹿か俺は……。30直前の男がいい歳こいて甘酸っぱい恋愛? って、言ってやりたかった。
 告白を決意した前日は、家の周りをぐるぐる周って、ああでもないこうでもないと理屈を捏ねて未駒たまきの事を忘れようとしてみせた。どうせ、フラれるに決まってる……って、しょげてみたりして。
 未駒たまきの表情。仕草。「どうせ! フラれるに決まってんだ!! 気づけよ! バカヤロウ!」深夜の住宅街で俺は思わず叫んだ。何の反響もなく閑静な夜空に声は消えていった。

——そんな前日の記憶が頭を駆け巡って恐怖に打ち震えていると、差し伸ばした、手汗で濡れた右手に、柔らかな感触が伝わるのを感じた。
 未駒たまきは俺の手を、握っていた。
 嘘みたいに「うん。いいよ」と、未駒たまきは浅っさい返事をして、俺達は付き合う事になった。
「たまちゃんって呼んでね」と。
 未駒たまき。たまちゃんは言った——。

 初デート。たまちゃんは、新宿のLOVEってロゴを四角に配置したオブジェの前で写真撮りたいって言って、青梅街道沿いの新宿アイランドって所に行こうと押し切った。
 ちなみに、俺はスカイツリー行きたいですと提案。休日は人多いからって即却下。俺はしょんぼりしながら彼女の提案にすんなり従った。
 朝11時の都庁駅前で待ち合わせすることになった。
 当日、待ち合わせ場所で緊張しながら待ってると、
「あっ舞城クン! やっぱ先に来てる。えらいねぇ」って言って、たまちゃんはやって来た。
 クスッと笑う仕草は可愛かった。
「いや、全然待ってないよ」手をはらはら振って大丈夫だよって大袈裟に言ってみせた。
 ホントは緊張しすぎて、だいぶ前に着いちゃって、待ち合わせ時間までこの辺をぷらぷらして時間潰した。ソワソワが止まんなかった。
初デートで緊張してたものの、この辺りは仕事でちょくちょく来るとこなので、なんだかデートって気分にならなくて、溜まってる仕事や訪問先の予定を頭の片隅で思い出しながら、なんでここ歩いてんだろ? って感じていた。
 未駒たまきと手を繋いで歩いて、横並びで歩調を合わせる。彼女はサラッと手を引いて俺を目的地まで導いた。繋いだ手の間合いを慎重にを保ちつつ、彼女の表情をチラチラ伺いながらドキドキして歩いた。
 彼女は都庁を中心に開発されたビル街を見上げて反射する光を眺めては、眩しそうに手を翳して、その度に無邪気にクスッと笑っては散歩を楽しんでた。横顔に差し付ける光の筋が輝いて見えた。
 その姿が綺麗だなって思っても、彼女が俺を見てくれないのには少し傷付いた。

 目的地のLOVEのオブジェに着くと、彼女はスマホを小さなスクエアバッグから取り出して、「まいちゃん写真撮ってよ」と言って俺に手渡して、ロゴと一緒に収まりそうな場所まで駆けて行った。
 彼女の顔はオブジェに向いていたが、まいちゃんって呼ばれた事に驚いて「う……うん!」って生返事して、スマホのフォト機能をポチポチして背景にマッチしそうなフィルターを探した。
 舞城から……まいちゃん? まいちゃん——。女子の語感、新鮮。
とか思いながら、それっぽく綺麗に映えそうなフィルターをチョイスすると、指で準備オッケーの丸を作って彼女にカメラを向けた。
 彼女はLOVEの前で、うなじを見せる様に上を向いてポーズをとった。あっ…綺麗と思った。なんだか既視感ある有名な絵画の様な、それか、艶やかな石膏の女神像みたいだなって。
 見惚れて思わず何回かシャッターボタンを押した。そしたら、何回目かで「何枚撮ったの?」と笑いを堪える様に手を口に当てて笑いながらこっちに近づいてきた。
 その瞬間にもシャッターを何度か押した気がする。なんだか可愛いかったから。イメージ的にはクールで感情を表に出さないタイプと思ってたのに、意外な一面が見れて、あっ……付き合ってんだなって実感が湧いて、パシャパシャスマホが音を立てているのに気づかずに、何回も親指でシャッターボタンを押していた。
 彼女は笑いながら近づくとスマホを取り上げて、「じゃあ、今度はまいちゃんの番ね」ってスマホを多少いぢると、こちらにカメラレンズを向けた。
 その時の俺はどんなポーズをとったらいいのかイマイチわかんなくて、結局、肩ガチガチの直立不動の引き攣った顔が、スマホのライブラリに追加された。
 彼女はちょっと鼻で笑うと「舞城クンらしいね」と、バカにする様に、少し揶揄う様に言ってみせた。

——周辺をぷらぷら歩いて、仕事の話とか、普段何してるとか、他愛ない、付き合ってなくても出来るような話で場を繋ぎながら、新宿駅方面に向かって二人で歩いた。
 そっか。俺って勢いで告白したけど、彼女の事なんも知んないだな……って虚しさを感じた。
 でも、彼女との会話は楽しくて、自分なりに必死に話を盛り立てようと口を動かした。
 それを見た彼女は「何だよ。必死じゃん」と笑って呆れていた。でも、笑顔だったのでコレで良かったのかな? とホッとした。

 そこから数ヶ月間。彼女と日々を過ごした——。色々デートした。江ノ島とか横浜とか上野とかミッドタウンとか——etc。
 でも、二人の距離は縮まってる様で、平行線の様で。それが悲しくも感じてた。
 幾ら時間を費やしても埋まらない溝があるのかな……なんて。

——その日は平日9時くらいの駅のホーム。珍しくホームには自分達以外の誰もおらず、二人だけで閑散としたホームで帰りの電車を待っていた。手を繋ぐだけの進展の無い交際に、心に薄靄うすもやが掛かる。
 帰りの電車を、簡易な作りのプラスチックベンチで待つ、ちょっとした時間が虚しくて、苦しい。
 彼女は駅舎の屋根の間から覗き見える夜空を見上げながら、時々目を瞑ったりして夜の空気と微かに光る星空に浸っている様だった。
 俺は……虚しくなった。こっちを見てほしい。そんな思いが心一杯になって虚しかった。
馬鹿! バカヤロウ! 俺! 手を握れ! 彼女を見ろ! 距離を縮めろ! 声を掛けろ! 彼女を振り向かせろ!
 心の声が俺の背中を力強く叩く。
俺が彼女に向き合わなきゃ進まないんだ! 自分に言い聞かせろ! 向き合え! 勇気! 勇気出せ!
 そんな感情が、閃光の如く脳内を駆け巡った後に耐え切れなくなって思考回路が火を吹いている。
 俺は考えなしに、地面を蹴り上げる様に思いっきり椅子から立ち上がって、横に座る彼女の前に立って、スッー……っと、息を目一杯まで吸い込んで、
「俺さ! 未駒さんの事が! たまちゃんの事が好きなんだ! だから、俺を見てほしい……! こっちを、こっちを一瞬でもチラッとでも見てほしいって! 思うのに……空見て黄昏て——。頸は綺麗だよ。たまちゃんは綺麗。でも、俺が好きなのとおんなじだけ、たまちゃんにも俺の事好きでいて欲しいから! どう思ってるのか俺に教えてくれ! こうやって吠えて誰かにうっせーって言われてもかまわない……。たまちゃんの気持ちを俺に教えてくれ! 俺には! 恋愛の駆け引きとかわかんないから! めんどくさい奴になるしかないから! 君の気持ちを聞かせて欲しい……それだけなんだ——」
 近隣住民は痴話喧嘩だと思うだろう。駅員は飛んで来て何事かと問うだろう。電車が来たら、その後気まずくて目も当てられないだろう。下手したら別れるだろう。未駒たまきは瞳をまん丸にして全身を硬直させただろう。古びたプラスチックベンチは音圧でビリビリ揺れ、微かにヒビが入り情念が刻まれた事だろう。
 視界は高揚で真っ白になって何も見えなかった。言い終えてあふれ出る恥辱と後悔の一人相撲の妄想に耐えられなくなって、膝から落ちそうな脱力感が徐々に襲ってきた。
 嗚呼……もうダメだな……なんて。
 そうして虚脱して口をポカンと開けながら肩から足先まで萎んでいく俺を見て、未駒たまきは立ち上がって、膝から落ちる前にスッと俺の手を握り、もう片方の手は俺の背中にやって、ギュッと力強く抱きしめた。思いがけない抱擁にドキッとして、けれど、今の自分には温かくて身を任せたくて、俺もそっと手を彼女の背に回して抱きしめた。
 ふんわりとした愛情に包まれた気分になって、目を瞑って彼女の肩に顔をうずめて寝てやってもいいかな……なんて思って身を預けた時に、彼女は俺の耳元で「アンタこそ何もわかってないよ。コノヤロー……」と、囁いた。
 意外な言葉に呆気に取られて、肩にうずめた顔を彼女の眼前に移すと、彼女は涙をボロボロと溢して、少し口角は歪んでいて、目元は笑っている様で、少し鼻をすする音を立てて、
「ホントになんでこんな奴好きになったのかわかんないよ」と言って、ゆっくりと顔を近づけた。
 二人は額を合わせて目線を合わせるとゆっくりと鼻を近づけ、少し荒くなった呼吸音を立てて鼻の感触を確かめるみたいに口元を近づけ、互いの唇を合わせた。
 心の時間が止まった二人だけの瞬間が訪れて、我を忘れてキスの触感に身を委ねた。二、三、唇を交わしたと思う。彼女も俺も薄目を開けて互いの瞳の奥深くを見つめていた。だから、この時間が永遠に続いて欲しいと思った。
 けれど、到着のアナウンスが構内に響いた。遠くに聞こえる線路を踏み付ける車輪の音色がゴトゴト音を立て迫ってくると、未駒たまきはフフッと鼻で笑いながら、唇を離して、俺をグッと押し放った。
 俺は呆気に取られた。初めてのキスがこうやって終わる事に、ただポカンとしていた。
 電車の迫る音に掻き消されない様に彼女は大きな声で、
「今日は! ここで! お別れっ! また! 今度!お互いが! 想いをぶつけ合って! また! また! しよ! それまで! お預けね! で! 今日は! 私は! この電車で! 帰ります! 着いてくんなよ! バカヤローッ!」
 応援団長が全身全霊を賭けて選手を送り出す様に、地面に向かって体躯を曲げながら、華奢で可憐な彼女には相応しくない、初めて聞く馬鹿デカい声で、未駒たまきは俺に叫んだ。
 俺はキョトンとしてた。目はまん丸だろう。未駒たまきの言う通りにその電車には乗らなかった。というか、乗れなかった。目の前で起きた事の収拾が付かなくて。
 何故かって、この時の吠え切った彼女の表情、振り乱した長い黒髪を掻き上げて、少し崩れた目元のメイクと頬を伝う涙と、それら全てを吹き飛ばす如く清々しい笑顔、思いっきり俺を見据えるその笑顔に、俺は胸打たれたから。胸を貫く衝撃。足りない頭で光景が何度も何度も繰り返されて、美しくて、俺の心の中はのたうち回っていた。
 何なんだよー! コノヤロウー! って。
——寂れたベンチに一人腰掛けながら電車を更に一本乗り過ごして、終電間近の車内に駆け込むと、やっと我に返って彼女にLINEを送った。
「また会おうね! バカヤロー!」って返事があった。ニコッとした顔の絵文字と、初めてのハートマークが付いていた。
 何なんだよ。未駒たまき——。って思って胸が苦しかった。


愚鈍な子犬は、小悪魔な私を苛立たせ、困惑させ、釘付けにする。

——別れた。今思うと最悪な恋愛だった。27歳。この中途半端に男に縋り付きたくなる年齢で、くしゃってやってポイって捨てられるように、『俺達付き合ってないから』その言葉だけで捨てられる私。
 その言葉を聞いた時には震えが止まらなかったけど、なんとなくみょうに納得がいって、「あーっ……何勘違いしてんの? 私も付き合ってるとか思ってないから」
 精一杯の作り笑いして、冷めた言葉をお返しした。彼に対してやれる限りの抵抗をしてやった。してやった。してやった。
 彼のポッケからスマホのバイブレーションの音が響き、彼はすぐさま反応して電話に出る。私のアパートの前で、他の女とくっちゃべってるコイツをゆるせないと感じたけど好きだった…。この瞬間までは。

——ひとり部屋の隅で体育座りになって、まばたき一つできないままに震えていた。
 なれてる。こういう恋愛はなれてる。なれてる。何度もした。前は10コ歳上の営業マン。その前はサークルの先輩。その前は大学でたまたま隣に座ったネコ顔の男。その前は野球部だった1コ上の先輩。そのまえは。そのまえ……。
 涙がフローリングの床に点々と跡をつけて落下していくのを、見たくなくても目で追ってしまう。まばたきができないから。どうしても反応してしまう。自分の恋愛遍歴と重なる既視感を、落ちていく粒に感じ取ってしまう。
 みたくないのにみてしまう。したくないのにしてしまう。もとめられていないのにもとめてしまう。うまくいった恋、も、あったはず。はずだよね。と、いい聞かせる。
 アイツはこっちから振った。コイツは途中でムカついて空中分解させてやった。あの男はしてるときの独りよがりに生理的苦痛を感じて、やんわり距離を置いた。付き合ってない男とも男友達ともしたことがあったけど、そういう場合は意外とアッサリ関係が流れるものだと思ってた。その場のノリでしちゃう。そんなこともあったなぁ……って、水の玉が集まって水たまりを作る過程を観察しながら自分を振り返っていた。
 なんで、あんな男に尽くそうとおもったんだろう。年齢かな? 昔はなんでもサラッとキッパリって決めて人付き合いしてきたつもりだったのに、いつのまにか粘度が上がっていたのかもしれない。
 今しがたフラれた男の鼻先で「私を離さないでよ!」って顔をぐしゃぐしゃにしてでも、彼のしわひとつない卸したてのスーツをぎゅっと全身全霊の力を込めて握って、涙と鼻水と私の悲しみの痕跡を残してやろう。縋りついて泣きついて徹底的に依存してやろう。
 そんな考えが頭をよぎる自分に恐怖を感じた。怖さを感じて、もうおわりにしよう……って思った。
 男には私のこと、あんまり見えてないんだろうなって、浮気でも二股でも妻子持ちでも、いつかは自分の方が優位に立って、男の方から縋りついてくる。そんな空想に支配されて、始めは人生を遊んでいるつもりだったのに、いつのまにか遊ばれる位置に立っていた。涙が止まらなかった。連絡帳から名前を消すのは何人目だろう。思えば思うほど悔しかった。
 たいはいてき。
 そんな言葉を使うのだろう。
 部屋の間接照明の灯りが私の涙をキラキラと乱反射させる。おそらく目に溜まった涙がフィルターとなって、そんな幻覚をみせてるんだと思う。
 キラキラした水滴は美しく綺麗で、対比して私のこびりついた汚れが目立つようで本当に嫌だった。

 嘘みたいな恋がしたい。バカみたいな恋がしたい。したい。
——有給を使って部屋で一人ゴロゴロしながら、埃をかぶってくたびれた「愛がなんだ」のページを捲って感慨に浸っていた。これわたし。とか、とっくに通り過ぎた意味のない恋愛観を、他者視点で覗き込めば新しい恋愛にたどりつくんじゃないかって思って、開いては閉じて開いては閉じて。
 もう二度と読み返さないぞってくらいに読み込んで棚の奥深くに封じ込めていたこの本。
 何度読み返そうとも、過去に遡って考えてみても、何度も読んで何度も違った感想を抱いたのを思い出すけど、今の私には、この本に描かれた恋愛がちょうどいいように感じた。
 年齢ってひとを変えるからね。なんて。
 高校生の頃にふらっと入った書店に置いてあったこの本をたまたま手にとって、地味目だった私は恋愛について知りたいって好奇心から読み進めていくと、主人公の女の子のなんて可愛いそうなんだろう! そこまで尽くすことないのに! って第三者視点で眺めながら、私は絶対にこんな恋愛をしないぞ! って心に決めて、けれど男性からどう見られるかを意識する意味を見出した気分になって、できるだけ小綺麗にしてみたりチャーミングとは何か? を自分なりに考えて、男友達に擦り寄ってみたり、時に弄ぶように男子の感性をくすぐる仕草を会得してみたり……。
 そうやって男に遊ばれない女になろうってした。
 言い訳かもしれない。この本に出会わなければ、今頃どんな恋愛をしていたんだろうって。表紙は角が擦れて少しまあるくなってページは黄色く日焼けているこの本に。出会いたくなかった。の、かもしれない。純愛できてたかもしれない。
 部屋の中心でゴロゴロと転がりながら、何度も読み返した文章やフレーズ一つ一つを眺めては、本の内容よりも色濃い自分の恋愛の記憶がよみがえってきて虚脱する。
 まぁいっか。そんな気分になれたのは朝日が差し込む時間になってからだった。シゴト。しごと。仕事。
 支度せねばと慌ただしく、毎朝のルーティンの輪に自分を引き戻す様に体を動かすと、ようやく気が楽になった気がする。
 同時にたぶんこれは吹っ切れたなって思って、スッと鏡の前に立ち、対男性用スマイルをしてみせると、そこには相変わらず懲りてない私のこびりついた笑顔が映っていた。
 まぁこんなもんだろう。それが私の答えだった——。

 その晩の仕事帰りに少し電車の待ち時間が空いたので、いつもなら無視して通り過ぎる書店が目に入ってなぜだか吸い寄せられるみたいに気まぐれに立ち寄った。
 次の電車は10分後くらいなはず。その待ち時間を埋めるために、棚で長方形に区切られた碁盤の目の迷路みたいな書店の廊下をくるりと一周してやろうと思った。歩いてれば何かに当たる気がしてふらふらしたくなったから。
 一日中、社内で寝不足の中、忙しなく働かされて、同じ風景見せつけられて、目の隈をコンシーラーで必死に隠している私の苦悩なんて知ったこっちゃないって感じの相変わらずの社会から抜け出したくて。子供みたいに廊下をジグザグ駆け抜ければ……まぁ走りはしないけど。闊歩してやれば何かがスッとするだろうし、何かに当たって人生変わるんじゃないかって。
 そんな妄想の撒き餌に吸い寄せられる魚みたいに細長く奥行きの深い書店の廊下を、ジグザグ、ジグザグ、と歩いていた。
 うつらうつら、水族館のでっかい水槽の中を揺蕩う小魚のようにスッー……と滑り歩いてると、ボンヤリと、
「愛がなんだ」のことを思い出した。
 角が擦れて日焼けした文庫本を読み返した時に甦ってくる恋愛遍歴をまっさらにしたいとおもってたんだ。
 一日中ゴロゴロペラペラと捲っては嫌悪に浸っていた自分にケリつけるなら、いっそ買い替えて、綺麗な新しい「愛がなんだ」になってやろうと思ったから。
 諦観した恋愛を刷新して、より諦観した現実嗜好恋愛の深層に潜り込んでやるぞ。と。ね。
 ボンヤリとした思考でフラフラ歩く私はいつの間にか「愛がなんだ」を探してゆらゆら動きはじめて、気がつくと目線の先の愛がなんだと書かれた本めがけて手をゆっくり伸ばしていた。

 本が手に届く瞬間に、ゴツゴツした指と私のほそっこい指先が触れた。
 途端にビビッと体に電気が走りドキッと胸高まった。まさか男の人と手と手が重なるなんて……。恋愛マンガで見たような使い古された展開が起こるなんて思ってもみなくて心拍数が急上昇してる。
 手が触れた瞬間、ボンヤリした心は我に返って、どうしよう! 急になに⁉︎ しかも男の人の手だし! なんだ! わーっ、なんだ! とパニックになって、驚いた表情をコンマ1秒で非常用ビジネスOLスマイルに切り替えて、相手に向けて笑顔を放つと、そこには舞城ユキヨが驚いた顔して立っていた。

——舞城ユキヨ。ちょっとした理由で気になったことがあって、何回かかまをかけてやろうと、美人OLの気を引きスマイルよろしく、そつない気遣いからのオフィスラブ妄想を刺激して、からかってやろうと思っていた男だ。

 彼の一度目のしくじり。後ろからそっと近づいてコピー機の故障の手伝い。というか、前から調子悪くて業者に連絡するのめんどいから誰も触れようとしなかった、業務用のバカでかいコピー機を彼がまんまと使って、周囲の社員達はアイツ行ったよ的視線を浴びせてた所に、私が出張る事で好感度アップからのつい気になっちゃうあの子ポジを獲得できる事は先の恋愛で実証済みだった。
 コイツ罠にハマったな。ニヤリ。
 そんなイタズラ心を押し殺して、あくまでもササっと気が利く出来る女性を演出する体で、これ裏っ側に業者の番号書いてあるんですよね。私手伝いますよ。と、うまい具合に絡めとる胸キュンオフィスエピソードを創作したつもりが、
「あぁー、やっぱ調子悪かったんですね。めっちゃ助かります。自分ちょっと傾けるんでその間に確認してもらってもいいですか?」
とサラッと返すと、バカみたいな大きさのコピー機をがっぷり四つで抱き抱える様に斜めに押し支えて、苦しそうな声を出して
「この角度……だと……ギリ見えます……か……?」と言って顔を真っ赤にしていた。
 どんだけ無理すんだよ。実はこういうこともあろうかと業者の番号は控えてんだよ。と、胸の内でツッコんでから、ジェスチャーとしてスマホのライトをつけてパシャりと業者の連絡先が書いたシールを写した。
「あー撮れました。こっちから連絡しときますね!」と、ビジネススマイル。
 なにさせとんねんって、いかついワードが頭を駆け抜けたが、彼は清々しい顔で「未駒さんってやっぱり凄く気配りができて素敵ですよね。俺も見習わないとダメですね」と言いながら、照れた様に首元に手を掛けた。
 私はコイツダメだ。と呆れた。
 何がダメかって、ときめきを相殺するダメ男アピールの無駄さ。何か胸に引っ掛かって異様にモヤモヤした。
 またカマをかけてやろう。

 次のしくじりは、社内の自販機横のベンチで独り寂しく缶コーヒーを啜っている彼を見かけた時だ。
 ボンヤリと缶のラベルを眺めながら彼が黄昏てたから、ベンチの端のちょっと空いたスペースに私も腰掛けて、スマホをいぢりながらそれとなく声かけろよアピールしてみた。
ゼッテーにこっちから声はかけん! と心に決めてたから、スマホいぢって、時たまわざとらしくハァー……っと溜息を漏らしてみせると、彼は「たまきさんって偶にここ来るんですか?」と聞いてきた。
「んーっ。たまにね。独りになりたい時とか。なんか落ち着くじゃん。こういう誰も通らないとこで独り黄昏れてんのも」
 そう返す事で、共感を与えて意識させる! の、最強パターンを発揮したつもりだったのに、
「たまきさんって変わってますね。俺もこのベンチ好きなんですけど、たまきさんが使うならこの場所譲りますよ」と言ってから、私を見やって屈託なく微笑むと、スッと立ち上がって何事もなかった感じに廊下を歩き去っていった。
 は……? なんか気を遣われた? なんで?この男、意味わかんねー。とグチャグチャに絡み合った思考が私を苛立たせた。
なんかわかんないけど許さん!
 彼は社内で滅茶苦茶地味な存在で、飲み会では席から動かず粛々と呑みかけの酒瓶を処理する役割に徹している様な男だった。
 そんな奴が私にサラッと席を譲る? しかも、今回は赤面もなし? ハァと溜息吐くと、自分の意味のない上から目線の嫌悪感と罪悪感が芽生えた。
 その瞬間がなんかヤだったから、後日、飲み会に誘った。数合わせだったけど、私の目的は、未駒さんか居るなら行きます! って言葉を引き出す事だった。
 彼がいつものベンチに居るのを遠目で確認してから、自販機でミネラルウォーターでも買おうかと小銭を入れて、敢えて時間をかけて選ぶ素振りして、横目で彼を観察した。
相変わらず居場所がないように自販機横のベンチに座っていた彼は、珍しく電話で話してる。同窓会の数合わせがどうのこうのと言っているのが聞こえた。
 これはチャンスだと悟った。恋愛はリサーチが重要だ! 両天秤はなかなか刺激的だろう! と思っていると「あーっすいません。その日出なきゃならない様があってムリなんですよ」と、手を合わせてごめんなさいのポーズをとりながら屈託なくさらっと打ち明けた。
 私は、あーそうなんですね。急に話振ってごめんなさい。それじゃ。と、いちおうスマイルを作って、一言返しその場をスタスタと立ち去った。
 なんだかあっさりフラれた様な気分になってムカついた。たぶん早足だったと思う。
 ハートに爪を立ててぎっーーって不快音を立てられてる気分になった。

 それからは、彼のことを意識はしているけれど、男としてではなく変な生き物のようなつもりでボンヤリ観察してた。
 意外と男前なトコもあるんだな。あぁでもコイツダメだ。ふーん、なんか妙にさっぱりしてるとか。
 動物園にいるカピバラを観察する感じで、その愚鈍さと愛くるしさが混在した、他者から見れば愛くるしいと見えるだろう動物を遠くからそれとなく観察していた。
 でも、女っ気はないし女子社員はほぼ誰も気にかけてない。
 それを考えると、心の中にスマイルマークが浮かびあがって、私の心はなんかスッキリした。
 動物園に通う女子の気分がなんとなくわかった気がした。

——舞城ユキヨも手と手が触れ合ったことに動揺して、首に手を回して赤くなって俯いていた。
 その隙に私は彼よりも先に本を手に取ると、舞城くんってこんな本読むんだね、映画好きの舞城ユキヨに合わせて、映画観て読んでみたいと思って、とか嘘ついたりしながら、「愛がなんだ」のページをパラパラ捲って、平静を装いながら、彼にちょっかいをかけた日々を回想していた……。
——たいはいてき。な、恋。
 いま、目の前にいる彼は私に何をもたらしてくれるだろうか?
 小説でも手垢がつきすぎて誰も使わなくなったベタな展開に、一瞬ドキッとしたって、そんなもの寝て起きればすぐに忘れてしまう夢みたいなものだ。
 私は何故だか笑みがこぼれて、ふふっと口角が緩んで、同時に彼に本を預けてみようと思いついた。なぜだろう。
 バカみたな恋がしたい。したい。それが目の前にいるカピバラ男子とは到底おもえなかったけど。彼の中に私の何かを置いておける。
 今まで、それとなく躱され続けてきた関係性の中に、やっとひとつ何かを、この男の中にも。いや、鈍感なこの男にやっと私の足跡をつけられそうな気がして。
 私はそんな空想にふけりながら、ボンヤリとした意識の中で、彼の掌の中に本をはさんだ。
 その時の私は邪念なんかいっさいだせないほど、純粋な精神状態で、わたしの素の笑顔を彼に向けながら、読みたくなったら借りるね、と言った記憶だけがボンヤリと残っていた。わたしは彼に軽く手を振って、長方形に区切られた廊下をスタスタと一直線に歩いて駅に直行した。
 電車は一本逃したけど、胸のつかえがとれた気分になって、何気ない日常のルーティンのラインに戻れた感覚に安堵していた。
 今日が普通の日になったみたいで嬉しかった。


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