見出し画像

科学者は戦争で何をしたか (益川 敏英)

(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)

 著者の益川敏英氏は、2008年ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者です。
 受賞時のインタビューに対するコメントを聞いたときからちょっと気になっていた方でしたが、この著作も大変興味いものです。

 取り上げているテーマの流れで極めて政治的なイシューにも言及していますが、そこには「科学者」であると同時に「市民(人)」としての立場からの氏の考えが開陳されています。

(p19より引用) 「科学者は科学者として学問を愛するより以前に、まず人間として人類を愛さなければならない」

 これは益川氏の恩師である理論物理学者坂田昌一氏による揮毫です。
 この「まず人間として」という精神が、「研究者は、自らの研究のもたらす功罪にもしっかり眼を向けるべき」という益川氏の主張につながっていきます。

(p27より引用) 自分の研究が社会でどんな役割を持つのか、悪用されるとすればどんな可能性が考えられるか、科学者ならばまずそのことを深く考えなければならない。社会に生きる人間として思考を停止してはいけない。そこのところを科学者は忘れてはいかんと思っています。

 こういった科学者の良心は、歴史を振り返ってみて幾度となく蔑ろにされてきました。とりわけ「戦争」という特殊環境のときがそれです。

(p45より引用) 科学に国境はなくても、祖国が戦争に巻き込まれていけば、否応なく科学者たちは軍事目的のために駆り出され、愛国心を強いられることになるのです。率先して協力した研究者もいたでしょうが、自由に研究する環境を奪われ、葛藤を抱える研究者も多かったことでしょう。

 そういえば、まさに「ノーベル賞」は、自ら生み出した成果が「軍事目的に転用された」という科学者ノーベルの忸怩たる葛藤の中から生まれたものですね。

 この国家権力による拘束以外にも、最近では、広範な利害関係スキームの中で、科学者は自らの役回りを位置づけられてきています。

(p78より引用) 科学が一般の人々の手から遠ざかり、研究者さえも巨大化した科学の行先が見えなくなってきている。その裏には巨大な資本が動いています。戦後、何が大きく変わったかと言えば、国家による強力な科学技術政策の推進もありましたが、何より顕著だったのは、科学研究に対するかつてない産業資本の投資と、その結果の商品化です。
 つまり、科学政策の中に市場原理が根深く入り込んできている。そのため、純粋な科学研究が市場原理に左右され、研究者たちがマネーゲームの中で翻弄されている、というのが今の実態です。

 世の中が「選択と集中」というある種効率化一辺倒の動きを呈している中で、選択され集中された「要素」からは、その用途や影響範囲という全体像が見えなくなってしまいました。
 したがって、科学者は、自ら手掛けた研究成果をその責任の範疇でコントロールすることが実際上は不可能になってきたのです。自らの意思とは無関係に、その研究成果は正邪様々な用途に使われてしまうのです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 益川氏は、本書にて、平和利用と軍事利用の「デュアルユース」の可能性を常に抱える科学研究の実際を踏まえ、その当事者たる「科学者」の“無関心”“無作為”の姿勢に大きな危惧を抱き、それに警鐘を鳴らし続けています。

 益川氏の立論は、極めて明確かつシンプルなので、その掘り下げ方という点では少なからず物足りなさを感じるところはあります。(この点は、幅広い読者に自らの主張をできるだけわかりやすく伝えることを重視したことも背景にはあるでしょう)
 しかしながら、自らの信念を強く抱き、その信ずるところを目指して先頭に立って行動する姿は賞賛すべきものであっても、決して否定されるものではないと思います。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?