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エコエティカ ‐ 生圏倫理学入門 (今道 友信)

今、思う、倫理学

 参加していたセミナーでの必読書として配布されたので読んだ本です。
 今の時代環境に基づき考察された倫理学の入門書です。

(p60より引用) 人間が運命として甘受しなければならないもの、また、それゆえに、そこから個性の自由な展開が可能なものと、それとは異なり、人間が人力で変換しなければならないものの別があるのか、ないのか、そういう問題を倫理として考えることは、絶対に必要であり、その基礎に形而上学が要求されると思います。ということは、形而上学に裏打ちされた新しい倫理学が考えられなくてはならない、ということです。

 タイトルの「エコエティカ」
 初めて耳にした単語ですが、著者によると、一般的な訳は「生圏倫理学」、「人類の生息圏の規模で考える倫理」とのことです。

(p74より引用) 今までの倫理学は、人間同士の倫理学でした。今や私どもは、それだけではなくて、直接的な対象として考えてみると、自然、技術、文化に対しても倫理があるのだということを考えていかなくてはならない。ここにエコエティカの対象拡大があります。

 著者は、エコエティカの具体像を示すために、いくつかの新たな徳目を提示しています。
 著者によると、従来の倫理学においては、「勇気」「忠」「謙遜」「責任」などが主な徳目としてひろく共通的に認められていたと言います。それらに加え、著者は、現代に資する倫理においては、「フィロクセニア(異邦人愛)」「定刻性」「国際性」「語学と機器の習得」「エウトラペリア(気分転換)」等が新たな徳目として掲げられるだろうと述べています。

 本書において著者は、以上のような体系整理に併せて、いくつもの具体的例を示しながら、新たな倫理(エコエティカ)の確立・浸透の必要性を訴えています。
 特に、臓器移植等を推進する「医の倫理」の問題、人間の制御能力を越える「原子力に係る倫理」の問題等における著者の主張は、非常に興味深いものがありました。

 この点についてのひとつの基本的なテーゼは、「人間の本質たる意識は時間的な存在だ」というものです。

(p194より引用) 人間に本質的なものであるところの意識は、いかにして生成発展するのかと申しますと、これは時間の中で自己を育てていくものです。つまり意識というのは、哲学的な伝統の通りに、時間的な存在だということです。
 技術が時間を圧縮してゆくことは、つまり、時間的存在たる人間の本質である意識を圧縮することにつながりはしないか。これが大きな問題となります。

 技術連関という現代の環境においても、自然は一定の時間を守ってきたといいます。

(p196より引用) 先ほど、われわれ人間は本質的には自然である、と申しました。そして、しかも自然のなかでもわれわれとしては、意識という時間性を強調しなければならない存在です。時間性を強調するとは、自然の「待つ姿勢」にまねることになります。それは時熟への忍耐と待機の自覚を養います。

 先の臓器移植についていえば、他人の体を傷つけてまで自らを助けるのではなく、人工臓器の開発まで待つという考え方です。

倫理からの気づき

 倫理学と銘打った本は、私の記憶のなかでも読んだことはなかったと思いますが、本書の内容は非常に興味深いものがありました。
 もちろん、すべて肯定というわけではありませんが、あらゆることを考えるうえで、参考になる視点をいくつも再確認できたように思います。

 それらのなかで、私の覚えとして、以下のいくつかの気づきを記しておきます。

 まずは、エコエティカが対象とする問題の一つである「人と物との関係」を考えるにあたっての「所有」と「使用」の概念について。

(p127より引用) 所有権は直ちに使用権を含まないということは当たり前で、・・・所有権と使用権とがつながらないということは明らかなのに、現実の生活では「自分の土地だからどう使ってもいいだろう」とか、「自分の家だからどんな家を作ってもいいだろう」というふうになり、これが都市の美観を害なっていることも事実ですし、経済活動なり政治活動において、間違いを起させているのではないかと思います。

この点、特に日本人は「物に対する所有のパトス」が強いと著者は指摘しています。

 次に、日本人論のなかで頻繁に登場する「恥の文化」について。

(p128より引用) 昔から日本には「恥の文化」というものがある、と言われていますが、それは「公に顔向けができない、残念だ」と思うことがあっても、おのれ自身を不徳のゆえに恥じているわけではありません。
 何に対して恥じているのか、といえば、世間に対してであり、つまり、世間が間違っているのならば、間違いに合わせることが恥ずかしくないことになってしまうのです。これこそ、世に迎合することです。つまり、われわれの国の「恥の文化」は、内的な「恥の道徳」ではない、ということです。

 この指摘は素直に首肯できますね。日本人論においては、この日本人にとっての「世間」、さらに「世間の中の自己」というものを突き詰めていくことになります。

 さて、最後にご紹介するのは、人間が行為を起す際の論理構造についての著者の主張です。

 ここでは、古代ギリシアの大哲学者アリストテレースが登場します。
 アリストテレースの「ニコマコス倫理学」においては、行為の論理構造の出発点は「目的」でした。その目的を達成するための「手段」が複数あり、その中から「もっとも立派」で「もっとも容易」なものが選ばれるという仕組みでした。

 これに対し、著者は「新しい技術環境の中での行為の論理構造」として、以下のような仕組みを提起しています。

(p144より引用) 目的が自明的に望まれているのではなくて、社会に強力な手段Pが自明的にそなわっているということであります。電力も原子力もその一例です。あるいは形はちがいますが、大資本もその例になります。そしてこの自明的なところで、ある強力な手段としての力Pから、どういう目的が達成されるかという考えが出てきます。ですから手段Pが自明であって、列挙されるのは、その手段Pから分析的に考えられて実現が必然的に可能と思われるもの、それが目的として列挙されます。そしてこの目的の中で、どれか一つをある原理で選んでいかなければならないのです。

 この考えによると、最後の「目的の選別の基準」がさらに重要になります。
 また、著者は、以下のような重要な問題点も指摘しています。

(p146より引用) 手段が強大な物理的な力である現代の場合には、この物理的な力が可能にする物理的な事柄しか目的としては出てこない、という限定があります。

 ちょうど本書と並行して、梅田望夫氏による「ウェブ時代をゆく‐いかに働き、いかに学ぶか」という本も読んでいたので、多くの点で、二人の主張の対比や拠って立つ価値観の相違が感じられてなかなか面白かったです。

(追記)
 実は、この本を読んだ後、著者の今道先生ご本人のお話しを2時間ほど直接うかがう機会がありました。
 お話しの中には、いくつもの心に残ることばがありました。以下にご紹介します。

 西田幾多郎氏と鈴木大拙氏の友人関係に関して、「真に謙虚であれば、良い友ができる」
 西田幾多郎氏の「善の研究」という本を何度か読み返しているというお話しに関して、「書物とともによい思い出が残る」
 今道先生が学生時代、西田幾多郎氏にお会いになった際、西田氏から贈られた言葉にとして、「哲学は予言者にならなくてはならない。その予言は論理に基づかなくてはならない」
 今道先生がエコエティカを記された想いとして、「『各個人が内面的に反省したときに自分の人生に意味があるかを考える』ということを書きたかった」

 哲学関係の講義は学生時代にも受けたことがなかったのですが、今道先生のお話は素晴らしかったですね。その道の第一人者の方のお話の内容はもとより、その正に謙虚なお人柄には、本当に久しぶりに唸りました。


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