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中谷宇吉郎随筆集 (中谷 宇吉郎)

 中谷宇吉郎氏は、低温科学の草分け的な物理学者です。
 雪の研究で有名で、そのままズバリのタイトルを冠した岩波新書の「雪」は、ファラデーの「ロウソクの科学」にも比肩する素晴らしい著作だと思います。

 本書は、その中谷氏の随筆集です。寺田寅彦門下でもある中谷氏は、やはり随筆の名手でもありました。
 たとえば、「雪雑記」
 雪の結晶の観察のために十勝岳のヒュッテに滞在したときのくだりです。

(p25より引用) 夜になって風がなく気温が零下15度位になった時に静かに降り出す雪は特に美しかった。真っ暗なヴェランダに出て懐中電燈を空に向けて見ると、底なしの暗い空の奥から、数知れぬ白い粉が後から後からと無限に続いて落ちて来る。・・・風のない夜は全くの沈黙と暗黒の世界である。その闇の中を頭上だけ一部分懐中電燈の光で区切って、その中を何時までも舞い落ちて来る雪を仰いでいると、いつの間にか自分の身体が静かに空へ浮き上がって行くような錯覚が起きて来る。

 続いて「『西遊記』の夢」の一節。
 これは昭和17年の随筆ですが、当時の子供はよく本を読んでいたようです。その姿を見て中谷氏はこう語ります。

(p64より引用) 時々その本を覗いてみると、今昔の感にたえないくらい子供向きの良い本が沢山出ているようである。しかしああいう良い本ばかりでは少し可哀そうな気がしないでもない。
 少しひねくれたような言い方になるかもしれないが、子供にもよく分って面白くて為になるような本ばかり読んで育ったならば、本当の意味で自然に驚嘆する鋭い喜びを知らなくなる虞れがなくもない。

 西遊記を読んでいる子供の目の輝きは、“好奇心” という探求の根源となる動機の誕生でもあるのでしょう。

 このあたりの問題意識については、続く「簪を挿した蛇」というタイトルの随筆にも見られます。

(p76より引用) 本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむつかしい。

 思い切った「非科学的な教育」がむしろ自然に対する驚異の念を深める効果があるのではというのが中谷氏の考えです。

(p78より引用) 人間には二つの型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたと思う人と、物質の神秘が増したと考える人とがある。そして科学の仕上仕事は前者の人によっても出来るであろうが、本統に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか。

 興味を拡大する想像力に富んだタイプの人間が、その好奇心をエンジンにしてフロンティアを切り開いていくのです。

 さて、本書に採録されている随筆のひとつの柱となっているのが、恩師寺田寅彦氏にまつわる思い出です。
 寺田氏の学者・教育者としての素晴らしさ、また師に対する中谷氏の私淑の情は、本書の随所で披瀝されています。

 それらのうちから、ひとつ。科学に対する寺田氏の俯瞰的視野を紹介したくだりです。

(p291より引用) 自然現象は非常に深くまた複雑であって、科学は、自然全体を対象とするものでない。自然界の中から、現在の科学の方法に適った面だけを抜き出して、それを対象としているという見方も成り立つ。この立場をとれば、比較科学論も成り立つわけである。
 寺田先生は、はっきりと、この後者の立場をとっておられた。「今日の科学を盛るべき容器はすでに希臘の昔に完成してそれ以後には何らの新しきものを加えなかった。」内容はつぎつぎと変って行ったが、容器、すなわち思考形式は変っていないという意味である。こういう立場をとれば、形の物理学や綜合の物理学などという全く新しい物理学も考えられる。それが本当の比較科学論である。

 欧米で主流となっている従来型の画一的・分析的科学手法への拘泥は全くありません。
 素直な構えで対象に正対し、そこから得られる発見・驚きという「着眼」を重視しています。そして、その「着眼」を起点に、新たな科学の発展を創造・活性化するというハイレベルの姿勢だといえるでしょう。



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