Across The Universe
"Nothing's gonna change my world"
こんな感じの歌詞がある。ビートルズの歌。
僕はいろんな方とディスカッション(議論)するのが好きだ。
僕も昔、『会話』『議論』『対話』の違いについて講座で話したこともあるし、『対話』が大切だと言っていた。
個人の設定によらず人と人との営みがある程度うまくいくためには『対話的な場』が機能的であると、今も概ねこの考えから変わらない。
では、『対話的な場』でなかったら、自分は機能しないのか。人と人との営みをある程度うまくするために『対話的な場』以外に方法はないのか。
僕はいろんな方とディスカッション(議論)するのが好きだ。
なぜなら、新しい視点が得られる、新しい知見が得られる、新しい擬似体験ができる、新しいパラダイムに出会える、人間の奥深さに触れられる、からだ。
そういったものを自分の中にインストールする機会になる。
20数年前、ある中学校で女子バスケ部の顧問をしていたことがある。
ミニバス(小学生のバスケ)時代に全国大会に出ていた子どもたちがほぼ半分いた。
保護者も含めて全国大会(県大会優勝)が期待されていたチームだ。
結果、2年間やったが県大会ベスト8までだった。
ま、それは本論ではなくて、そのバスケ部の顧問になった2年目に、保護者会会長になった方から申し出があった。
「先生、一度、先生自身がバスケットを基本から学んでみるのはどうでしょう」
前任校で男子バスケ部をもっていたので、顧問としては約6年やってきており、当然審判のレベルもそこそこになってきた頃だった。
僕は、心躍った。
子どもたちと一緒に練習したり、本を読んだり、他の先生からトレーニングの仕方や戦略、戦術なども教えてもらったりあったが、ちゃんとバスケットボールを教えてもらったことはなかったからだ。
僕は小学野球・剣道、中学校テニス部、高校サッカー部、どれもパッとしない感じだった。
中学教師に初めてなったとき、男子バスケ部の顧問になり、バスケのおもしろさに心躍った。
その保護者会会長は、確か中学から大学までバスケ部だったとのことで、基本から何からやってきた(見た目は『スラムダンク』の安西監督のメガネなしな感じの)方だ。
「はい!やります!」
即答した。
こうして会長と僕とのマンツーマンでの夜間練習が始まった。
ボールのキャッチ、ボールをもらうための動き、そこかれ流れるようにシュートの姿勢に入る、など、さまざまなフットワークや姿勢について何度も何度も繰り返し練習した。
ある夜、練習途中に休憩したときに会長が言った。
「先生は、スポンジが水を吸収するようにどんどん身につけていく。普通は、これまでやってきたことと違うと、これまでのやり方にこだわって覚えられなかったり、すでに癖がついて抜けなかったりするんだけど、どうして?」
僕の取り柄は、そのまんまをそのまんまインストールできるところだと思う、今は。
でもこのときは、そんな自覚もなかったので、こう言われて驚いたし、同時にうれしかった。
「会長、ありがとうございます。お忙しい中こんな時間までとって教えてくださってるので、限られた時間で教えてくれることをできるだけそのまんま身につけたいのです。なので、これまで学んだことは会長から教わったものじゃないので、それは全部脇に置いています。」
「そっかぁ!大したもんだ!先生、すごいな!」
会長が感心しながら笑った。
このときから学び方の大切なポイントのひとつとして自覚するようになった、いったんそのまんまをインストールすること。
僕はいろんな方とディスカッション(議論)するのが好きだ。
自分にないもの、一見知ってるものであっても、それを内的なシステムの中でどのようにとらまえ、どのような意図において重要と考えるかは、人によってだいぶ異なるからだ。
『会話』『議論』『対話』、どれであっても、それは学びの機会になっているし、『インスピレーションについて』にも書いたけどアイディアの宝庫にもなっている。
そこから興奮気味に、こんなのはどうだろうとか、さらにこうしたらどうだろうとか、発展した話になることもある。
もちろん乗ってくる人とそうでない人もいるけど。
いずれにしても、一度、自分の中にインストールしても、最終、自分の内的システムの中に結びつくものとそうならないものもある。意識的にも無意識的にも自分の中に残るものもあれば残らないものもある。
そう!だから
"Nothing's gonna change my world"
(何者も僕の世界を変えられない)
これを確信しているから、何の話でも学びの道になっているのだ、僕の場合。
こうして、"Across The Universe"してるんだと思う。
ちなみに"change"は僕の世界観ではあまり馴染みがないが、"transform"はしっくり来ている。
僕は、何かを変えられる(change)とは思えてなく、変容(transform)しようとするものに働きかけることはできる、と考えているからだ。
これは、『組織ってところから考えるからややこしい』にも書いたけど、世界と個人との繋がりなどの世界観として通底しているものだ。
"Nothing's gonna change my world"
(何者も僕の世界を変えられない)
もっと自信をもって自分を開いていっていいんじゃないか、オレたち!
【蛇足】
最近、カルトの話題が盛んになってきている。
そんな時勢に「自分を開いて」なんて安易に言っていいんだろうかという自分もいるので、カルト宗教のあたり、少し書いておく。
商売でも手の込んだ心理的なことをついたマーケティングとかあるわけだから、カルト宗教の誘い込み方は昔よりもさらに手の込んだやり方を駆使していると思う。
ひとつだけ大切だと思うのは、敵を知ることだと思う。
それが不足しているなら、安易にどこへでも飛び込まない見識は持った方がいいだろう。
メキシコのシャーマニズムに『狩人』になる訓練がある(僕が熟読した本のひとつ『ジャーマンズボディ』に詳しくある)。
世界には、狩る側と狩られる側しかない。生き残るとは、狩られないことである。
ひとつだけって言ってさらに蛇足だが、心が弱って宗教団体に入信しそうになるときには、『信仰は信仰すれば十分であり、信仰するために団体に所属する必要はない』という指針を持つのはどうだろう。
それから僕の場合は、『怖れで動かすものは自分の主義と合わない』というのは高校生のときから大切にしている。
まとまらないけど、カルト宗教との出来事はこちらに書いてみた。
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