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組織ってところから考えるからややこしい

今日、ひさしぶりに本屋に行った。

経営やイノベーションやら組織、モチベーションなどなど、ビジネスに関する本が本当にたくさん並んでいた。

ビジネスはほとんどが組織活動であり、組織があるから組織ってところから考えることになる。

オレはそもそも組織や社会に不適合な人間なのと、もともとただ数学が好きなのと、人が好きで教育に熱いだけなので、人と人とが集まって何か決めてやってることがあるという視点で(組織も含めて)あらゆる場面を眺め、考えてきた。

そもそも近代の組織は機能的なのだろうか。

認識の範囲とその認識した要素の繋がりの系をどこまで意識するかによって、組織の機能性の議論は限りなく広がりうる。

数学好きは、拡張性や汎用性、公式の発見、応用可能性など、ついつい考えたくなる。

長々と前置きみたいなことを書いてしまった。

オレの結論をいうと、組織は固定化するほど機能的でなくなる。

なぜなら、人は生き物であり、生命体であるから。そして、人と人とが集まって生み出しているすべてが生命体としての振る舞いに統制されているのだから。

流動化できる形は組織と言えるだろうか。

最近の組織論は、ここへの挑戦のように見えるが、あくまでもこれまでの組織論からのフォアキャスト的なアプローチによる論の展開に過ぎないのではないか。

あるいはこれまでの組織のアンチテーゼとして、異なる形式の組織の成功事例から法則性を引き出す論の展開も多く見る。

つまり、そもそも組織という思い込みから始まる論に見える。

そこから考えてる限り、新しい組織論も本質は理解しがたいように思える。

あくまでもこれまでの組織の思い込みから抜け出るための作業とはいえ、組織を頼りに考えてる限り時間もかかるだろう。

頭の中で、繋がりを保ちながら考えるよさと、ジャンプするよさとを区別する必要がある。

実はシンプルだ。

オレたちは生命体だ。

社会も組織も生命体活動だ。

生命体は流動性の中に力動するものだ。

社会も組織も流動化する要件を備えなければ、機能不全を招くのは自明である。

組織と個人についても同様に言えるだろう。

組織を前提にして個人を捉えてしまうと罠に嵌るだろう。

現在の組織は生命体デザインから程遠いために、組織を前提に考える習慣は、個人の生命体能力を歪ませると考えられる。

以前にnoteに巷で言う『ヴィジョン』とオレが思う『ヴィジョン』の違いみたいなことを書いた。

一緒に夢を見たとき、人と人とが繋がり、共に活動する。その夢が、『ヴィジョン』だ。夢は非常に個人的なものだ。

夢の揺らぎの中で、果たすべき役割も変わっていくだろう。関与するレベルも変わっていくだろう。

夢は揺らいでいる。だから、いつまでも同じ組織で同じメンバーで同じ役割で、ということはない。緩やかな変化もあれば、素早い変化もあるだろう。

組織はそれを許容できるデザインになっているだろうか。

オレから見ると、組織におけるさまざまな要件が固定的過ぎる。特に素早い変化に対してはほとんど対応できない。当たり前だが大きい組織ほど、そうなる。

そのため、固定的な仕組みであればあるほど、すぐに組織は機能不全を発症するだろう。

労働問題や人事制度や組織経営における問題という問題は、こういった背景で生まれている症状に見える。

組織や社会に染まれば染まるほど、個人の夢がわからなくなるのも同様の理由と思われる。

個人の夢と固定的な環境はそぐわないのだ。人は生命体だから、その中にある夢も生命体としての振る舞いをする。

固定的な環境は、生命活動の全体性を損ねる。全体性の損なわれた影響が出やすいところに、その歪みが症状のように問題化させていくのだ。

生命体デザインから程遠い現代の組織を前提に考える習慣は、こういった問題を全体性から切り離して解決しようとする(社会についても同様のことが言える、『社会課題解決』という言葉の意味が不十分である理由でもある)。

今、必要なことは、個人が生命体としての感覚を研ぎ澄まし、そこから集団のあり方、協働のあり方を再定式化することである。

現在の組織について暗黙知も含めて染まっていると、個人としての感性や感覚を回復するまでに時間がかかるかもしれない。

しかし、個人も組織(新たな時代には死語になり、新たな共創活動)も持続可能性を高めるためには、生命体としての力動性、全体性の回復が必要である。

と、ここまで熱く思うところを書いてみたものの、これもまたひとつの見通しに過ぎない。

数学好きとしては、この仮説を実証的に確認するために、実験が必要なのだ。

だから、これからさらに『実験』に力を入れていく。ますます楽しみである。

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