ドライブ・マイ・カー 感想
以下は公開直後(2021.8)に書いた個人的な感想ですが、アカデミー賞にノミネートされておるので、こういうダラダラ長いのも誰かが読むこともあるかな、と、アップしてみます。
良いことも、そうでもないことも書いてあります。観たのは1度だけで、2度観たくなるかというと、そうでもないので、個人的にはそこまで好きな映画でもないね、と。
別にきらいじゃあないですけど
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ドライブ・マイ・カー 感想
2021.08.31
村上春樹を読むとどうも(悪い意味で)ムズムズする体質ですので、肌に合わない可能性があるなあ、と思いながら鑑賞しました。
序盤はそれほどでもなかったんですが、中終盤にぐっと心をつかまれました。普通は逆なんですけどね。序盤おもろそうなのに尻すぼみ、という映画が多い。
この映画は、後半が好きです。
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第一幕、
左ハンドルの車で日本ぽくない始まり方をし、夫婦の部屋の中も生命感生活感が無く、何事もすぐにセックスと自慰につなげてしまう春樹マジックのおかげか、いちいちムズムズしておりました。
完全に好みの話ですが、私の場合なんというか生活に根ざす不潔さ、というか「小汚さ」ってのが描かれていると、早い段階で映画世界に引き込まれることが多いのですが、この西島秀俊、霧島れいか、清潔やねえ、と思いながら冷静に観ておりました。
春樹に小汚さを求めるのは無理があるねえ、と。
情報の後出しによって、なぜこの歳の夫婦がセックスを繰り返すのか、いちいちキスしているのか、ってことが徐々に見えてくる。
序盤は単純にきもっ、と思ってみているわけですが、ああ、娘の喪失、そして、再度子どもを作るかどうか、的なプロブレム。
それが何かしらねじれた結果、セックスで物語が生まれる、というそういう(ある種の地獄)に陥ってるんやねえ、ということがわかってくる。
まあそれは辛いでしょうけれど、どこかで打ち切りにしないと進めないすねえ、という感じです。
成田からの逆戻りで不倫がバレるわけですが、そのあたりは劇的にベタでしたけど原作がそうなんでしょうか?
(出張が急にキャンセルになって家に帰ると妻が男を連れ込んでいた)
設定はベタだけど、西島秀俊の無言の動き、動線と、霧島れいかが目を開けないことによってもたらされる緊張感、ってのがすごいシーンだなあと思いました。おまえ、今目を開けたらおしまいだぜ、とドキドキしながら画面に釘付けになりました。
また、そういう緊張感のせいで霧島れいかに目がいくため、不倫相手は余裕で岡田将生だろ、と油断してたら、あとから思い出すと、あれ?あの男、ほんまに岡田将生やったっけ?
という、意外とちゃんと見てなかった自分にも気づき、うまく騙された気にもなりますね。
そしてくも膜下出血で霧島れいかご臨終されまして、ようやくタイトルが出ます。こんな遅く出るタイトルは、愛のむきだし、を思い出しました。
そっかー、こっから本題かー、長そう、という感じ。
この去らせ方、自殺をほのめかすのではなく、葬儀のシーンではっきり弔問客の声で「くも膜下」と言わせたのは良かったかと思います。私自身、けっこう近しい人が昨年くも膜下出血で亡くなってしまいまして、あるんよねー、昨日まで元気だったのに、、というかなしい気持ちになりました。
ここ、自殺と病死では意味合いが全然変わってくるので、観客に無駄に両方のラインを追わせないのはクレバーな選択だと思います。
第一幕はそんな感じで、
所々に顔を出す春樹的セリフにゾワっとしながらも、まあまあ楽しみながら観たように思います。
浮気現場で目を開けなかった霧島れいか(でも実は薄目で西島に気づいてたりしてるかもなー、ともやもやしたり)
浮気目撃後、脚本の続きを聞かれたのに教えない西島秀俊(そんなちっせー仕返しすんな!とニヤニヤしました)
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第二幕は、ドライバー三浦透子が登場しタイトルの意味合いが濃くなってくると同時に、密着ドキュメンタリー的に「ワーニャ伯父さんの劇が出来上がるまで」ってなメニューでしょうか。
ルノワールの本読みのシーンは、映画というよりも、単に稽古場にカメラが入ってる、みたいで面白かったですね。ゆっくり読めって言われて「え?マジで?もっとゆっくりとかイミフやろ……」ってな反応してる役者とか、棒読みをすることで「自分を差し出す」みたいな話が、新興宗教的でこわ面白かった。
岡田将生が自分をコントロールできない、といい、これは後の伏線となるわけですけど、自分で自分をコントロールしないこと、テキストに自分を預けること、それが役者の演技の真髄や、みたいな話になって、人間として立派なことと、役者として優れていることが必ずしも一致しない、というような話が出てきて(どうやら不祥事起こしたらしい)岡田将生が復帰を目指してるってのと噛み合っててうまいなあと思いました。
ただ、劇の練習のシーンが延々とあるので(そのセリフが重層的な意味を持つことはわかりながらも)眠くなってしまいました。
言い訳的に役者が「眠くなっちゃうわね」みたいなことを言うておりましたが、同感でした。
三浦透子が相当な魅力を放ち、韓国人夫婦、犬、呪いのテープのような声のテープ。岡田将生と飲むウイスキーの丸い氷。
次から次へと要素が降ってきて、飽きさせない仕掛けがあったとおもいます。
逆に言えば気楽に鑑賞できないと言うか、三浦透子が「テープ聞きますか」と問うだけでこっちは緊張してしまうわけですね。それはどういう意味なのか、どう返事するのか。そこに意味はあるのか、無いのか。
だからあんま気が抜けない感じで、楽しいというよりは、脳が疲れる、って感じの二幕だったかなあ。
二幕の幕引きは見事で、岡田将生の退場。
それも、西島秀俊との車内対決を経て、ようやく練習で最高の演技が出た直後の警察乱入。警察がマイクで喋ってるのはめちゃくちゃおもろかったですね、笑い、という意味ではなく。あのシーンだけ何回か観たい感じです。
きちんと伏線ははられていて、そういや写メとったやつ一回追いかけてたわー、あれぜったい殴ってるやん。
そっかー、殺しちゃったか。。
という。
まさに、コントロール不能のキャラがそうなるべくして、しかるべき場所にゴールする。
堂々と岡田将生がしょっぴかれていくのも、犯罪は犯罪として、今俺はめっちゃええ演技したやん。こんな演技できるやつおるか?おらんで?わしは人間としてクズやけど、役者としていま輝いたんやで!
ってな感じなのかな。
「着替えてきていいですか」
っていうね。
役者としてはしょっぴかれねえぞ、ということなんでしょか。
その直後のシーンもめっちゃ好きです。
駐車場であの演劇の責任者みたいな女性が超冷静に「二択です」「あなたがやるか、中止するか」
あの人物こそ、最初の登場シーンから「有無を言わせずドライバーをつけさせます」という強烈なキャラとして演技してたんだなあと。
声に抑揚はなく、ただ棒読みのように見えるが、あれはすげえことなんじゃないすかね。
並の演出家だとあそこを棒読みにはさせれないぞ、と思いますね。韓国人のほうが若干感情を込めてしゃべってるため、より際立ちますね。
無理ですと言われ、
「わかりました、中止しましょう」
で、考えさせてくれと聞くと即答で
「2日が限界です」
しびれるね。
マイ・フェイバリット邦画は北野武のソナチネなんですけど、あの映画の破門を告げられるシーン大好きなんですよ。
組長が何の抑揚もなく「村川さんとこはとりあえず破門、という形をとるそうだ」
渡辺哲のリアクションは通常だと「えっ!」とか「ど、どういうことですか!」なんですが
ノーリアクションで
「他になんかありますか」
と聞いて、完全に何もなかったように去っていく。
かっけーすねえ。(ま、渡辺哲は村川組じゃないけれど)
この棒読み即答シーンで、ソナチネのことがぐっと脳内にあふれてきました。
で、どっか落ち着いて考えられるとこないか?と聞かれた三浦透子が
「コンコン」
って車を叩く。かっけーーーー!
ここは一番上がりましたね。本読みのときのセリフ終わりテーブルコンコンと関係あるんでしょか。
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第三幕、北海道行き。
ここが個人的には一番好きです。
二幕の最後で、なぜかソナチネのことを思い出したもので、三幕はめっちゃソナチネを思いながら観てました。
そういえば、ソナチネもやたらと車、車、車を運転する映画だったなあ、と。
ヤクザやめたくなっちゃったな、と漏らすのも車の中
那覇についてアイスを食いながら移動するのも車の中
夜中に瀕死のヤクザをのせて海に捨てに行くのも車で
謎の女がやってくるのも車
高橋の脚を撃って拷問して爆破するのも車
これから死ににいく武に
「ガソリン入れてってくださいね」
と勝村が言うのも車だった。
最後にその青い車が止まって、武の時間も止まる。
濱口監督がソナチネを意識してる気配は全く無いけれど
映画である以上、無数の過去作品とのシンクロによって何らかの反応が起こることはあるのだと思います。
ソナチネの死にゆく青い車は沖縄でしたが、生きようとする本作の赤い車は北海道を目指す。
そうやって三幕を観ると、単に北へ向かう車を見ているだけで、非常に豊かな時間となり、
セリフも何もいらんで、という気になります。
いちお
「運転かわろうか」
「いいです」
「なんで?」
「運転するのがわたしの仕事ですから」
的なセリフもあるっちゃあるんだけど、それがしびれるかというと、まあ別にいらんけどねえ、と思ったりする。
一個疑問なのは、北海道上陸時になぜか無音になる時間がありましたね。
あれは何なんスかね。
無音、という演出は、個人的には嫌いなんですね。
急に音が消えることで、観客に強制的に緊張や集中を課すことになり、他に手段なかったんかよ、とさめちゃうこともあります。
いちお、画で「無料販売所、やさい、お花」みたいなのぼりが映るので、
ああ、花買ったんやな、今
ってわかるんだけど
花買うことにそんな無音にするほどの重みあるんかね?という気がしました。
何回か観ればまたあそこの無音演出の意図はわかるんでしょうけれど。
一回では単に「なになになに?なんで無音?」って気持ちが揺れただけでした笑
それか、雪景色だから無音なのかなあ。よくわからん。
で、三幕では北海道までの道中がいちばん心に沁みて(フェリーの中とかいいすねえ、あえてテレビの岡田将生を映さないという・・・)
ぶっ壊れた家に花を投げるとこはあんまでした。
たぶん、脚本的には理屈があそこであってるんだとおもうんですけど
個人的に、死者にもういちど逢いたい、と思わないので、
「おっさん、素直に気持ちを吐露するのはええけど、出てくるセリフが『もう一度だけでいいから逢いたい、あって怒鳴りつけたい』とかだっせえなあ、おい」
って気持ちになりました。
もちろん、西島秀俊に矛盾はなく、あんな平気なふりしなければよかった、ちゃんと傷つくことこそ相手と向き合うことだった、って反省をようやく人の前で言えた、ので、それはそれでクライマックスとして当然なんですけど、その内容がわたしの価値観とあんま響き合いませんでした、って感じですね。価値観を捨てて、パーフェクトに客観的に映画を観るわけにはいかんので、そこはもうしょうがないことでしょうけれど。
三浦透子が唐突に母親の別人格の話を出すのも、なんだかなあ、って気になりました。
余韻がないというか、別人格の話の直後に、それが精神病なのか、母が演技してただけなのかはわからんけど、みたいなことを言っちゃうので脳が忙しいですね。
当然「演技」についての映画でもあるから、その話自体はめっちゃ重要なんですが、もっと先に出しておけば、こっちもいろいろ反芻できるのになあ、と。急に別人格出てきて、急に処理終わらせられた感じがしましたね。
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と、あのクライマックスはわたしはあんまだったのですけど、ただ、ようやくあの二人が抱き合うという肉体的な接触が出て、それはそれで感動しました。
あれ、男と女、というふうにはわたしには見えず。
やっぱ失われた娘、を何かしら投影してるんじゃないかなあ、と。娘、に抱きしめられた父親、なんじゃないかなあ、と。
そういう画として観ました。
北に向かう途中、セリフでありますよね
「もしぼくがきみの父親だったら」って。
で、娘は4歳で亡くなって、生きてたら22歳、でしたっけ?詳しく忘れましたが、この映画の三浦透子ぐらいの歳でしょう。
娘が時空を超えて父ちゃんを助けにきたのかもしれませんね。こんな解釈する人がいるかは知りませんけれど。
ですから、ラスト、手話のワーニャ伯父さん、を経て、なぜか韓国にいる三浦透子。
あれはそうとう幅のある締め方で、観る人それぞれに解答を委ねていると思うのですが、
わたしは西島秀俊は韓国には居ないように思って観ました。
父ちゃんは娘に車をゆずって、いまはどっかで生きてるんじゃないのかね。
父ちゃんの車に乗って、なぜか韓国人夫婦の犬も居て。
あの犬はよくわからんのですけど、途中で出てきた犬と同じ犬なら、さすがに譲り受けた、は違うと思うので
あの夫婦と、三浦透子は一緒に暮らしてるのかもしれませんね。あの夫婦の嫁さんの方も流産、しており、子どもを失っているわけですので。
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とにかく、無限にあれやこれやを語り合いたくなる映画ですね。
それはポジティブな部分だけではなく、ネガティブな部分も含め。
すでにだらだらたくさん書きましたが、他にも
・タバコ演出の是非
・岡田将生をワーニャ役に指名したときの西島秀俊の感情
・後部座席と助手席
・ごみ処理場のシーン
・劇中劇のセリフと現実の出来事とのシンクロ
など、議題はめっちゃありそうです。
わたし個人は、ごみ処理場のシーンは半分寝てたので、なんかクレーンでつるされて、ぼとぼと落ちるのは観てたんですが、どういう経緯で行ったのかは記憶にありません笑
で、そういう、誰かとあれこれ話したくなる、ってことは、魅力ってことだと思うんですね。
そういう観客の心に刺さるフックを、作品にいかにたくさん込められるか?
ひとつひとつのフックが、本気で考え抜いた結果生じるものだと思います。
「この程度で、ちゃちゃっと仕上げとこ」ってなぬるい姿勢からは出て来ないものかと。
細部まで気を緩めること無くひとつひとつの感情と向き合い、丁寧に仕事をしていくと、こういうレベルに結実することがあるんだなあ、と。
そういう雑感であります。
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