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シリーズ・新しい教育を雑に考える【3】

アクティブラーニングについて。

最近気づいたことをいくつか。

以前にどこかで、
「説教というのは、中身は二の次で、まず相手に聞く気があるかどうか、が重要」というような内容を書いた。
そして、だいたいダメな奴をグチグチ叱る系の説教というのは、基本的に相手に聞く気が無いわけだから、ほぼ無駄よね、
その無駄なエネルギーを説教じゃなく発電に使おう、みたいなお話。

最近気づいたのは、
「(たいして起伏のない)他人の話を聞き続ける集中力」というものには、個人差がありまくるじゃねえか!ということ。
いまさら、という気がしないでもないが、私自身が人の話を集中したまま何時間でも聞いてられる人なので、
盲点といえば盲点だった。40年以上生きてきて、気づかなかった。

最近、とある会議で、非常にイージーな質問を振られた社員が、何故か答えられなかった。
不思議に思って、あとで「話聞いてなかった?」と聞いてみたところ、
「きちんと聞こうとしているが、集中力が15分ぐらいしか持たない。途中から話が全く入ってこない」

そっか、何分か連続で話を聞いてたら、カラータイマーのようにスイッチが切れて、もう人の話が耳に入ってこなくなる人もいるんやな、という発見。(ちなみに映画を観るとほとんど寝てしまうそうで、コナンくんの映画観に行っても寝た、というのでツワモノである)

人がこのように、フリーズしてINPUTを受け付けないモードに入ってしまったら、そこにいくらありがたいものを流し込んでも無駄。
頭痛薬は飲んで効果があるわけで、口が開いていない人の頭に、頭痛薬をふりかけてるようなものです。

我々は、例えば居酒屋や、例えば電話などで、何時間も話を聞くことがあるだろう。
だから「いや、別に何時間でも集中力持つでしょ」と思うかもしれない。
でもそこには、集中力が持つ鍵がある。
例として小さな鍵を出すなら「相槌」、すなわち、双方向性である。

これは「これからの授業」というものを考える上で、非常に大切なことかもしれない。

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集団授業を行っていて、常に悩みであり、現在も研究中なのは、
「一方向的な講義を聞く力」が弱い生徒へのアプローチ、である。
頭がいい悪い、というよりも、講義スタイルで何かを吸収する能力が低い生徒。
よく考えてみたら、さっきの会議の例と同じで、
授業内でめちゃくちゃイージーな問いに(極端な場合1+1は?みたいな問いでさえ)答えられない生徒がいる。
これは頭が悪いとかふざけてるのではなく「そういうモードじゃない」ということよね。
レベルの低い講師はそこに気づけない。そしてヒステリックになったりする。
なぜこんな簡単なこともできないんだ!と。

このような生徒を今までは、やる気がない、集中力がない、聞く態度がなっていない、などと叱ってきたのかもしれない。
ちゃんと聞け、と。
でもたぶん、ちゃんと聞け!じゃなく、悪いのは講師であって、生徒からしたら、てめえがちゃんと聞かせろ!なんでしょうね。

そして、授業をするサイドに求められるのは、面白い解説・説明を工夫する方向性ではなく、
いかに生徒のINPUTチャンネルを開くか、どうすれば参加したくなる授業になるのか、ということなのだろう。

アクティブラーニングの注釈として「主体的で対話的な学習」などと書かれることが多い。
これを、そのまま受け取って、生徒に対して「もっと積極的になれ」だの「もっと自ら考えて意見を述べろ」だのいう教育者がいそうで怖い。
それは三流以下だよね。

教育改革で変わるのは生徒ではなく、教師である。
いかに生徒の積極性を引き出せるか、いかに生徒が自分の頭で考えたくなるお膳立てが出来るか。
そこが勝負である。

※追記コメント
全国の小学校の授業をテレフォンショッキングのオープニングみたいにしたら・・・
先生「はい社会の授業始めます、こんちは!」
生徒全員「こんにちは!」
先生「今日からいよいよ奈良時代ですね」
生徒全員「そーですね!」
先生「東大寺、大仏、作るみたいですよ」
生徒全員「そーですね!」
先生「墾田永年私財法、あれはデマだそうで」
生徒全員「そーですね!」
先生「んなこたない」
まあまあ面白そう。

[2018.09.22 facebookから]

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