【書評】おいしいごはんが食べられますように
【生きるのがしんどい時は、文学がいい】
こんにちは。アザラシです。最近は、アメリカに留学してました。留学も終わったということで、そろそろ「就職活動」というものに直面する時期が来てしまっています。どうにか逃げる方法はないかと苦悩していますが、同級生は既に「内定」に向けて動いている人も多く、焦りを感じるのと同時に、生意気にも「皆と同じことをしたくない」「型にハマったレールに乗りたくない」と思ってしまいます。こういう「しんどい」時って、皆さんはどう過ごしますか。私の場合は「文学」がいいって思ってます。
【芥川賞:おいしいご飯が食べられますように】
私は子供の頃から文学が好き、という訳では全然ないのですが、最近「つらいときには文学がいい」っぽいということに気付いて、本屋大賞とか、芥川賞とかだけ読むようにしています。ハズレがないので、こういう読み方もオススメだったりします。(オススメする友達いないんですけどね)
今回は、芥川賞を受賞した「おいしいご飯が食べられますように(高瀬隼子[たかせじゅんこ])」についてアザラシの感想、考察をつらつらと書いていこうと思います。好きなセリフが多すぎて、引用だらけになってしまいました。
本編を読んだ前提で書きますが、まだ読んでいなくても「この本を読みたい」と思ってもらえるように書きます。
【「おいしい」について】
私たちは、毎日ご飯を食べますよね。ご飯を食べるなら「おいしい」ほうが良いに決まってる。ご飯はみんなで食べた方がおいしい。ご飯は残したらダメだし、しっかりと用意して、お皿も洗って、規則正しく、寝て起きて「ちゃんと生きる」べきだ。ご飯は感謝して、味わって食べるべきだ。
主人公「二谷(にたに)」はそんな「おいしい」を嫌悪し、「食事は時間の無駄である」という価値観を持っている食品パッケージに勤める会社員です。
この作品は「食」をテーマに、既存の価値観に対して疑問を投げかけています。
・ご飯はみんなで食べたほうがおいしい
・ご飯は残さないようにしましょう
・ご飯はしっかりと用意しましょう
・ご飯は感謝して、味わって食べましょう
私たち、特に日本人はこうした価値観で「食」に対して「べきだ」のようなものを持っています。
作者は「それって本当に正しいのかな?」「いつ、誰が、なんで、そう決めたの?」とみんなが思う「当たり前」に対して問題提起をしています。
感想、考察については、以下から「だ・である」調で書きます。
【「あらすじ」について】
職場でそこそこうまくやっている二谷(にたに)と、
皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川(あしかわ)と、
仕事ができてがんばり屋の押尾(おしお)。
ままならない人間関係を、食べ物を通して描く傑作。
【「二谷(にたに)」について】
主人公「二谷(にたに)」は会社員で、食品パッケージの会社に勤めている。食事は「酒や煙草みたいに、食べたい人だけが食べればいいってもの」になって欲しいという価値観を持っている。
ドラゴンボールの仙豆を想像した。アザラシとしては「できるだけ違うものを食べたい」とは思うが、一方で「毎日健康でいられるなら、ずっと家系ラーメンでもいい」とも思う。もちろん、飽きてしまって現実には無理だろう。しかし、このことを考えるだけで価値があるような気がする。
私たちは「食」を目的に、北海道に行ったり、沖縄に行ったりする。海外にも行ったりする。希少なメロンに1万円を払って、みんなで「ありがたい」と言ってそのメロンを囲んで綺麗に食べたりもする。二谷にとって、そのようなことは全く理解ができないようだ。二谷の心情をもう少し探る。
二谷にとって「食」とは嫌悪の対象である。「押尾(おしお)」との会話で「それ(=食)の周辺も含めて嫌い」と言っている。
「それの周辺」とは、食事そのものだけでなく、食事をしている時に「おいしい」「すごい」と周りに言うことだったり、健康を考えたり、お皿を洗ったりすることで、それが面倒で、嫌いなのだ。
私が思うに、二谷は「人間関係(=生きること)がしんどい」と感じているのではないだろうか。
行きたくもない飲み会、もちろんそこには苦手な人もいると思う。おいしいと思ったら、一緒に食べている人に「おいしい」と共有しなきゃいけない空気のようなものがあるし、彼女が手料理を作ってくれたら「すごい」「ありがとう」「おいしい」と言わなきゃいけない。それらの言葉を言うべき、という状況が発生する時点で、二谷にとって「食」は「面倒で、嫌いなもの」なのだ。
アザラシとしては、二谷の気持ちがよく分かる。2人以上で食べるご飯では、変に注文するときに相手の気を遣ったり、「おいしい」と言わなきゃいけなかったり、好きでもない人と食事をしなきゃいけなかったり、食べ方に気をつけなきゃいけなかったり、相手の話をよく聞かなきゃいけなかったり、気に障ることを言われたり、そういう状況が生み出されてしまうなと思った。
私はひとりでいるのが好きだが、周りの人たちは「みんなで」ご飯を食べに行こうとするし、「みんなで」旅行にも行こうとする。まるで「"みんなで"ご飯を食べるほうがおいしい。ひとりで食べるなんて寂しい人間のやることだ」と言わんばかりに。私の友達は頻繁にインスタグラムに「みんなで」ご飯を食べている写真や動画を投稿している。そして、自分はそれを見て「羨ましい」と思うこともあるし、「気持ち悪い」と思うこともある。私は何に対して羨ましいと思っているのだろう。恐らく、私が「彼ら」に対して「みんなでご飯を食べていて、仲が良さそうで羨ましい」と思っている訳ではなくて、私の脳が「"彼ら"はとても楽しい時間を過ごした」と錯覚して、「羨ましい」と一瞬思わされてしまっているのではないかという感じがする。そう錯覚してしまう自分に嫌気が刺す。「彼ら」は、集団で群れて、周りに気を遣って、ひとりでいるときよりも疲れるにも関わらず、まるで自分が「誰よりも楽しい人生を過ごしています」と言わんばかりに、「みんなで」食事をして、インスタグラムに投稿して、自分を誇示している。そう思って、ムカついているのだと思う。その浅ましさというか、安直な行動に腹が立っている。思慮が浅い、と思う。これを指摘すれば、彼らは否定すると思う。指摘されて「そうではない」という否定する程度の自覚では、まだまだ私の気持ちが分からないと思う。こういうのは、自分自身でそう思わなければ、絶対に私の気持ちが理解されない。こういう時って、よくある。
何事もひとりのほうが、楽しい。私はそう思っている。
だから私は「彼ら」を「気持ち悪い」と思う。こういうのが、個性なのか。分からない。だけど、私はひとりでご飯を食べたいし、ひとりで映画を観たいし、ひとりでゲームがしたいし、ひとりで旅行を楽しみたい。二谷の気持ちが分かると言うと分かってないと思われる気がするのであまり言いたくないが、分かる。と思った。
次は、二谷の「後悔」について探る。
文学部で就職するのは難しいと思って、「将来の安定」のために経済学部を選択した。しかし、就職すると文学部出身者は珍しくなかった。
二谷は、好きなことを選ばなかったことを後悔していて、そのことを何度も思い返している。
同じ会社に文学部出身者がいると穏やかでいられなくなる。
とは、どういうことだろうか。
ここからは私の意見だが、私は、人間が幸福であるかどうかを決める指標に「自己決定権」と「一貫性」があると思う。
二谷は、同じ会社の文学部出身者を見て、嫌な気持ち、憎い、羨ましいという気持ちになった。二谷は「好き」と「現実(=行動)」を一致させることができなかった。「自分で自分を許せない」という感情を抱いたのではないか。
穏やかでいられなくなる(=自分は「好き」と「現実(=行動)」を一致させることができなかった。負の感情が沸き上がって、嫉妬(=憎悪)の感情を抱いている。自分にも、他人にも、この現実にも、穏やかでいられなくなる。)
次に、このような文章が続く。
その度に(=文学部を選ばなかったことを思い返す度に)、ただ好きだけでいいという態度に落ち着かなくなる。
私の見解だが、二谷は
「自己決定権」と「一貫性」がブレてしまったがために、幸福追求がうまくできなくなってしまったのだと思う。
具体的に私の解釈を深堀すると、
「自己決定権」=自分で自分の道を決めること
→文学が好きなので、文学部に進学することを決めた
「一貫性」=自分はこう思っていて、こうしてきた
→文学が好きなので、文学部に進学した
二谷は「文学が好きなら、趣味でいいじゃん。経済学のほうが、将来が安定するし、就職に有利だよ」という意見に影響を受けて経済学部に進学した。
自分の「好き」に正直になることができなかった。
私は二谷の意見をこう解釈した。
好きより大事なものがあるような気がする。「好き」と「現実(=行動)」を一致させるのが大事なんじゃないだろうか。一貫性を持って、自分に正直に生きることが、自己実現に、自分が自信を持って生きるために、大事なんじゃないだろうか。「好き」だけで物事を見ていると、"一貫性を持って、自分に正直に生きること"を見落としてしまうような気がするし、将来の安定よりも、「好き」を重視して、自分に正直に生きることが幸せだと思っている。
この解釈については、私自身(=アザラシ、記事を書いている人)と似ているからそう思った。結局、二谷が後悔しているのは
「自分に正直に生きることができなかったこと」で、
「自己決定権」と「一貫性」がブレてしまったのだ。
「自己決定権」がなくなると、私たちは現状に不満を抱く。どんな仕事でも、自分の裁量というものがないと、楽しくない。反対に「こうしたらうまくいきそうだ」と自分で工夫を始めたら、仕事に情熱を持てるし、楽しくなる。
「自分が」文学部がいいと思って、「自分が」決めて、実際に行動できる。「自分が」留学したいと思って、「自分が」決めて、実際に行動できる。こういうのが「自己決定権」。幸福について考えると、この「自己決定権」は間違いなく重要だと思う。
次に「一貫性」。私たちは自分の決定に「一貫性」がないと、自分で自分を許せなくなることがある。特に、それが「好き」なら余計にそうなる。二谷は「文学が好き」で「文学部」に進学したとしたら「一貫性」を持つことができた。しかし、現実には「文学が好き」だが「経済学部」に進学したので「一貫性」を持つことができなかった。この「一貫性」というのは厄介だ。自分のことなのに、自分で正しい判断ができないというか、その時の状況を見誤って、後で後悔してしまう。料理が好きだから、シェフになる。英語が好きだから、CAになる。パソコンが好きだから、プログラマーになる。文学が好きだから、小説家になる。多くの人間はこの「一貫性」に縛られていると思う。うまくいけばそれでいいが、そうはならない。自分で決めたことにも関わらず、だいたい選択を間違える。自分で自分のことをよく分かっていないのだ。後になってあの選択は間違いだったと後悔する。自分で自分を許せなくなる。過去は変えられないのに。
「自己決定権」と「一貫性」はどちらも「他者との比較」から生まれている。
どれだけお金があっても、どれだけ美男美女でも、どれだけちやほやされても、どれだけおいしいものを食べても、どれだけの学歴を手に入れても、結局、人は「他者との比較」で落ち込み、悔しい思いをし、羨ましいと思い、うざいと思い、苛立ち、時には優越感に浸り、喜び、と感情を動かすのではないか。
「他者との比較」をやめるのは難しい。
私は、自分のやりたいことが分からなくて、文学部を惰性で選んだ。二谷とは逆だ。「文学」が何を指すかも良く分かっていなかったのだ。本当だ。「文学」が何か知らなかったのだ。大学は偏差値が高いほうが就職にいいと思って、そうした。本音は、学問なんてやりたくなかったし、どうでも良かった。笑われるかもしれないが、本当にそう思っていた。周りにそんな思いを吐露したとしても、馬鹿にされるか、笑われるか、とにかく、自分の望む答えが返ってくることはないと分かっていた。だから、誰にも、何も言わなかった。
私は文学部を選んだことを後悔しているか?後悔してないと言ったら嘘になる。今の私なら、絶対に商学部を選ぶ。でも、過去は変えられない。だから私は、未来で自分の「こうありたい」を叶えたいと思っている。
二谷と状況は違うけど、そういう葛藤って、どんな人にもあるんだろうなと思った。逆に、ずっと正解を選んできた、ずっと自分で「一貫性」を持ち続けて、うまくいっている人もいるんだろうなと思った。そう思って「羨ましい」と感じる。ほら、「他者との比較」だ。
結局、幸福追求するには「他者との比較」をやめて自分を肯定してあげるしかない。
「一貫性」を持って、自己決定権のある人生を、ひとりで生きるのが、少なくとも私のような人間にとっては幸福なのではないだろうか。
仮に、周りにそう宣言したならば、誰かが私に「ひとりでいるのはつまらない」とか「友達は作るべきだ」とか「孤独は寂しい」とか「みんなでいるほうが楽しい」とか言ってくるだろう。余計なお世話だと思う。第一、家族も友達もいるから孤独ではないし、本当に余計なお世話だと思う。だから、周りには宣言しない。心の中でそう思っていることにする。そういうのも含めて、人間関係ってめんどくさい。
話を戻すと、二谷は「食」が「嫌い」で「文学」が「好き」。「食」は「強制」で「文学」は「任意」。この事実が、余計に二谷を苦しめているような気もする。「食」は嫌いなのにやらされて、「文学」は好きなのにやれなくて。
二谷にとって「職場の同僚と食べるランチ」「飲み会」「彼女の手料理」はすべて「嫌悪すべきもの」である。「食」そのものに煩わしさを感じている。
二谷は「おいしい」ご飯を食べられるようになるのか。私は無理だと思う。人間は簡単には変わらないし、少なくとも、変わろうと思っている人間しか変わらないと思っているからだ。
毎日「食」に触れる機会があって、毎度毎度、嫌悪を抱いている。二谷と押尾の送別会にて、二谷が芦川の作ったケーキを食べる場面がある。二谷は芦川に「すごい」「おいしい」と言うが
二谷はケーキでいっぱいの口で毒を吐く。芦川にも分からないように。二谷は続けて
と言った。「結婚」だけを聞き取れたのか、芦川は
と、怒涛の拷問宣言である。
周りの人間は
「みんなでごはんを食べたほうがおいしい」
「みんなおいしいごはんが好きなはずだ」
「ごはんは感謝して食べるべきだ」
「ごはんは残さないようにすべきだ」
こういうことを強要する人間は、私たちが「当たり前」と思っていることは、誰かにとって「当たり前」ではないと、どうして思わないのだろうか。
それは、人間は「見たいものしか見ない」「聞きたいことしか聞かない」からだろう。
「女の子なんだから大人しくしなさい」
「男の子なんだからしっかり食べなさい」
「子供なんだから黙ってなさい」
みんな、自分の「当たり前」で、他人を自分の枠に当てはめようとする。相手のため?...違うでしょ。自分のため。そのほうが気持ちいいから。自分が納得するから。そしてそれは、必ずしも本質を突いた価値観とは限らない。
二谷の職場のパートの女性として働く原田はこんなことを言っていた。
芦川も同じことを言っている。この発言は、本当に正しいのか?
二谷は押尾との食事で、こうした発言の矛盾を指摘する。
この二谷の発言に、確かにと思った。食べ物を残すと後ろ指をさされるのに、服をたくさん買って、そのまま着ない人は何も言われない。やっていることは同じなのに、「見えにくい」というだけで、そうなる。
私は「食」が好きだ。疲れた時も、つらい時も、しんどい時も、楽しい時も、「おいしい」ご飯を食べたら幸福を感じるから。たとえそれが、ひとりでも。
だから二谷に対して、私は最後にこう思った。
「おいしいごはんが食べられますように」
【「芦川(あしかわ)について】
二谷の同僚であり、彼女でもある「芦川(あしかわ)」は会社ではすぐに体調を崩し、早退する。仕事ができない。料理が上手で、周りが残業を遅くまでしているにも関わらず会社を定時で上がったり、早退したりするが、翌日に手料理を職場の人間に振る舞うことで自分の居場所を確保しようとしている。
芦川は感情が豊かで、優しく、弱い。それを職場の人間は理解しており、みんなが彼女に配慮している。そして、芦川自身も「自分ができないことは他人に任せるべきである」と思っている節がある。
二谷が言うには、
とのこと。
私も強くそう思うが、「この人は尊敬ができない」と思った瞬間、良い関係は築けない。尊敬なくしては、友人関係も、家族関係も、良好なものにはできないと思う。
芦川は、「怒鳴られるのが苦手」で、職場の人間に頼りっきりである。芦川のミスでもあるトラブルがあった時、芦川は何もしなかった。したことと言えば、定時で帰って、翌日に職場の人間にお菓子を持ってきたことだった。
毅然が足りない、度胸や意思の強さが足りないということだ。まさしく、芦川を的確に表現した言葉だと思う。
二谷は、芦川に「かわいそうでかわいい」という感情を抱いている。弱くて、何もできなくて、ふてぶてしくて、「この人は大切にしなきゃいけないタイプの人なんじゃないだろうか」と思っている。
【「押尾(おしお)について】
そんな芦川のことが嫌いな「押尾(おしお)」は二谷の同僚であり、何でも自分でやり遂げようとする強さを持っている。
二谷に「芦川さんのどういうとこが苦手なの?」と聞かれて、
芦川の発言に対して二谷は、同調するように
と言う。
いじわる、と言っても普通の業務をさせることだ。事務処理、電話対応、みんながやっていること。芦川さんは、それができない。弱いから。
しんどくても、できてしまう。
押尾は、頭痛がするなら頭痛薬を飲んで、頑張る。
芦川は、頭痛がするなら、早退する。
押尾は、職場の人間から受ける芦川への態度との差に不満を抱く。
その通りだ。職場の人間は、平等の尺度なんて持っていない。ただの、普通の人間だ。この人は好き、この人は嫌い。それぞれ違った思惑で、それぞれ違った価値観を持って動いている。
会社の上司である藤は、芦川に対して不満を持つ押尾の表情と態度を見て、
と言う。確かに、みんな、自分が正しいと思っている。どんな時だって、自分だけがかわいいのだ。
「不満」をよく言い表していると思う。肉をつつくような、腹の、腸の、下の方にたまる、重たいつつきこそ、不満の表現として的確だろう。
ただ、押尾は現状をどうしようもないことも分かっている。このまま定年まで働き続けるのだろうと、ストレスを感じ、この先はどうしたらいいのだろう、働き続けるしかない、と「どうして真面目な人は報われないのか。努力が報われるなんて嘘じゃないか」そう言っているようにも感じた。
そう。食の好みはみんな違う。一日三食食べる人もいるし、一日一食だけを食べる人もいる。何も問題はないのだ。誰が一日三食食べろと決めたのだ。一日三食食べた方が偉いのか?誰が決めた?どうして?その方が健康?本当に?どうしてその方が健康なのか?そうとは限らない。でも、その価値観に支配された人たちは、その疑問すら抱かない。理解ができない。しようともしないので、話にならない。
文明が進化して、集団で生きる能力というものが退化しているのではないか。押尾はそう言っている。その方が生きやすいから。そうだと思う。ひとりの方が生きやすい。成長できる。力強く生きていくためには、「みんなでごはんを食べたほうがおいしい」と、そんな価値観に押しつけられる必要もないんだと、そう言っているのだ。
【おいしいごはんが食べられますように】
とてもいい純文学でした。流石は芥川賞というか、「食」に関しては特にいろいろと考えさせられる内容だったように思います。
私は二谷と押尾のコンビが好きです。また彼らが食事をして、たあいもない話をしているといいなと。
以上、長い文章を読んでくれてありがとうございました。
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