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光と闇――完全な映画「ゴッドファーザー」

「この映画は失敗だ」――映画人の誤算

フレンチ・コネクションという71年の映画がある。主人公ポパイを演じたのが、もう頭が禿げあがってきていたジン・ハックマンである。なんでこんなおっさんが、と思ったものである。1971年の作品で、敵を追ってひたすら走り回る映画である。地下鉄車両での出入りの神経戦は、いろいろな映画でパクられ、クリシェ(お決まり)となっている。刑事もののスタイルを変えた映画である。主人公は美男子でなくていい、汗かいてなんぼ、という路線である。もう一つ加えれば、悪党がヨーロッパ系の冷たい感じの紳士というのの走りだろう。ダイ・ハードシリーズがそれを継承した。監督がウイリアム・フリードキンだが、ぼくはまったく縁がない監督である。「エクソシスト」が有名だが、怖い映画は基本的に見ない。ソフィア・アリスのは別だが。

なぜ冒頭でこの映画のことに触れたかというと、「ゴッドファーザー(以下GF、監督コッポラ、72年)」と因縁があるからである。「GF」のラッシュ(?)を観た関係者は、のろい、暗い、ということで、事前に封切られ評判の高い「フレンチコネクション」との違いに失敗を予見したという。フレンチコネクションはアカデミー賞各賞を総なめである。映画人は冷静に自分の映画を観ることができないらしい(前例主義ということで言えば、話は映画人と限らない)。

コッポラ絡みで、しかも映画人は客観的に映画の評価ができない例として、もう一つ脇道の話をしたい。名作「アメリカン・グラフィティ」である。これはジョージ・ルーカスが監督、コッポラが制作である。
ルーカスの2作目の作品で、映画会社に売り込むも叶わず、有名な俳優かプロデューサーを掴まえろ、と言われ、「GF」で当てていたコッポラに申し出て快諾を得て、ようやく映画化がなった。
有名な俳優が一人も出ていない(この映画で有名になったのがリチャード・ドレファス、ロン・ハワ-ド、ハリソン・フォード)、話が地味、複数の筋が同時進行する、全編にロックロールが絶え間なく流れる、グラフティという言葉が通じない、などが映画会社の御意に適わなかったようである(DVDのおまけ映像による裏話)。
ぼくはこの映画をまったく違和感なくアメリカ的なものとして受容した。クルマが仲間とつるむための必須のアイテムであり、それを捨てた主人公はこの濃密な人間関係の田舎町から都会へと旅立っていく。夏の夜のクルマによるクルージングは、その別れの哀感に浸されている。
もう一つ印象に残るのは、地方局のディスクジョッキーとの距離の近さである。ウルフマン・ジャックが本人役で出ているが、羨ましい距離感である。
ルーカスはこの映画を「前衛映画」と呼んでいる。しかし、過去へのノスタルジーを語った映画が前衛なわけがない。映画作法は新しく、テーマは古典、これが売れる条件であろう。ルーカスは「スターウォーズ」もヒットするとは思わなかったと述べているが、前記条件をこの映画も備えていた。宇宙で縦横に戦う戦闘機、一方、ポンコツ・ロボット、異様ななりの異星人が集うのがしけたバーというように、新奇と古臭いアナログを組み合わせている。
このパターンは宇宙ものの定番となり、「エイリアン」で完成形を見ることになる。宇宙の果ての惑星に不時着した宇宙船の内部は、まるで廃棄された工場のよう。雨がしたたり、油染みた機械は闇の中に沈んでいる。そこに人間そっくりのアンドロイドが登場するのである。エイリアンが生まれるところも、ヌメヌメテカテカしていて、とても宇宙とは思えない。この取り合わせの妙にやられた。
つとに故淀川長治は、「スターウォーズ」のもつ“懐かしさ”を指摘していた。その卓見の意味に気づくのに時間がかかった。

ウイキペディアによると、ルーカスはコッポラが自作映画に何かれと介入するのを防ぐために、秘蔵の作品「地獄の黙示録」のアイデアを渡したという。この話、どこまで信じていいものだろうか。ルーカスと「地獄の黙示録」はどうしても結びつかないのだが。

Maichael shoots  Sollozzo

コッポラへの不信

「GF」の前にもマフィアものがあったが、どれもヒットとはならなかったらしい。ぼくの記憶でも、いくつかマフィアものが来て、そこにGFがすごいぞ、という噂が流れてきた、という感じである。マリオ・プーゾの原作が売れて映画化の話が浮上したが(内幕が描かれた危ない作品、という噂。「マッドマックス」のように関係者に死者が出る、といったような)、監督がなかなか決まらない。分析した結果、イタリア物はイタリア人の監督にさせろ、となってコッポラの名が上がった。しかし、金食い虫で、納期も守らない、おまけにヒット作がない、ということで、仕方なしの決断だったらしい。実際の撮影も延び延びになり、契約問題が起きたり(訴訟にもなったはず)、先行きの見えない状態になった。
先にも書いたように社内試写で評判が悪かったというのが信じられない。冒頭から映像のマジックにぐんぐん引きつけられ、この映画はすごいな、とため息が洩れるくらいなのに。

相反するものの美学

GFは封切りと同時に名作の風格を備えていた。時にそういう奇跡的な映画がある。ドライビング・ミス・ディジー、ペーパー・ムーン、ラスト・ショー、キャバレー……。
ぼくは映画プロデューサーのベッドに転がる得体の知れないものを恐くて見ることができず、数回見てから、やっと馬の首と確認した次第。マフィア業界からいちばん遠くにいたマイケルが次第に頭角を現し、最後には名実共に次のドンとなるところで終わるわけだが、声や仕草まで父親のマーロン・ブランドに似てくるのには驚いた。恐い映画だな、と思った。

冒頭に「声」が聞こえてくる。画面は真っ暗。やがて暗闇に一人の男が浮かび出し、こちらを向いて窮状を訴えている。カメラが徐々に引くと、誰かの右肩が現れる。右手が傾けた頭を支えている。娘が男どもに強姦された、警察に捕まったが微罪で、しかも執行猶予が付いた、どうにか正義justiceを下してほしい、と男が訴える。感極まって嗚咽すると、こちら側の男の右手が軽く振られ、さっとハンカチを持った男が現れる。ここでやっと陰になっていた男がマーロン・ブランドだと分かる。そして、言う。「なぜ長いこと私を訪ねて来なかったのだ」と。「私はおまえの娘の名付け親、ゴッド・ファザーなのに」……何とも言えない見事な始まり方である。信頼はされるのだが、事が起きないと関わりたくない存在、その実態がはしなくも出ている場面である。相談に来た男は将来にわたる帰依を誓う。

最初が引きの映像なら、ラストも引きのそれである。妻(ダイアン・キートン)から「義妹の夫を殺したのか」と問いつめられ、パシーノ(末弟マイケルで、海軍の英雄)は「絶対にやってない」と答える。安心して妻は部屋から出てくる。開け放たれたドアの向こうでは、マイケル、つまり新ドン・コルレオーネのもとに挨拶の人間が次から次とやってくるのが見える。まるで冒頭のシーンの写し絵のよう。それをこちら側の妻の目線で写すのだが、静かにドアが閉じられるところでこの映画は終わる。

寄りの映像で印象的なのは、マイケルが深々とイスに座りながら、敵対組織の長であるソロッツォや悪徳警官などを殺すべきだ、と静かに述べるシーン。ここで彼は実質的な意味で、コルレオーネ家の代表者となる。

話を始めに戻すと、外では燦々と明るく、花々が彩り豊かで、そして賑やかな4女の結婚祝いのパーティのシーンが繰り広げられ、一方、暗い室内ではひっきりなしに裏の相談事をドン・コルネオーレに持ちかける場面が続く。この対比が見事である。配下の大男が自分の順番を待ちながら、慶賀の言葉をぶつぶつと口ずさむところにも、家長であるGFの権勢のすごさが見える。

パーティにどんどん客が集まってくる。警察とのごたごたも描かれ、長男ソニー(ジェームス・カーン)が切れやすい人間であることが早くも示される。やがてひときわ騒がしくなったと思ったら、やや落ち目の人気歌手が現れて大騒ぎが始まる。それはニノ・ロータがモデルだと言われる。彼もまたドン・コルネオーレに頼み事があってやってきたのである。自分の主演映画を撮りたいが邪魔している映画プロデューサーがいる、というので先の馬の首のシーンに繋がっていく。そのプロデューサーとの交渉役がロバート・デュバル(トム)で、彼だけがファミリーのなかで1人血が繋がっていず、それもドイツ系である。それが全体に微妙な影を投げかけていく。

パーティのシーンからハリウッドに場面転換すると、それまではイタリア調の曲が流れていたのが、ラグタイムの軽いノリの曲に変わる。トムとプロデューサーの交渉が決裂する。そして、翌朝、豪邸の俯瞰から室内へ、そしてプロデューサーのベッドの足元へとカメラがゆっくりと寄っていく。そこではあの有名なテーマソングがスローで流れている。また屋外の邸宅の俯瞰の絵になり、プロデューサーの上げる叫び声が聞こえてくる。

ほぼここまででコルレオーネ一家のあり方が説明されたことになる。名付け親として暴力を用いて相談事を解決する闇の部分。血を分けた一族とそこに臣従した者たちでつくる大家族としてのまとまりの陽の部分。この狭間で苦しみ続けるのが、4女のコニーである。夫は組の中では下っ端である。その鬱屈がコニーへの暴力として発現する。顔の痣を見て、長男のソニーが切れて、妹の夫を痛めつける。一族の中に不和の種が植えつけられていく。

この映画では陰と陽、静と動、聖と卑、表と裏、などの相反するものがドラマを駆動させている。
それを的確に表現するのが、同時進行の作法である。コルレオーネが市場で銃撃されるシーンは、手下の殺し屋ルカが敵の罠にはまって殺されるシーンと、ほぼ同時。圧巻は、マイケルが同時多発テロで敵対者を皆殺しにするシーンである。荘厳な教会音楽が鳴り響くなかで、妹の赤子のミサが執り行われる。司祭が名付け親のマイケルに「悪魔をしりぞけるか」と訊き、彼は「しりぞけます」と答える。その間、教会のパイプオルガンの音だけが鳴り響き、床屋で、ホテルで、サウナで、惨劇は無言劇のように進行する。このあたりの作劇は「レオン」でも引き継がれている。ベートヴェンを大音量で聞きながら、イカれ刑事が人を殺しまくる。

役者は長男ソニーがジェームス・カーン、次男フレドがジョン・カザール。すぐにカッとする暴走タイプを演じたジェームス・カーンの表情が、実はいろいろと複雑で、見飽きない。映画「マンダレイ」に出ていて、余りにも太った彼にしばらく気づかなかった。

カザールは頭のネジが抜けた役だが、「狼たちの午後」で見てその独特の存在感にやられた口だが、この映画でも貴重な役回りである。ベガスのやくざモスを演じた役者もいい。ショービジネスで俺は生きてきたんだ、若造が知った風なことを言うな、とベガス進出を狙うマイケルをなじるところは好きなシーンである。いかにもという感じが出ている。

結局、このファミリーを立て直すのは、軍人として部外者だったマイケルであり、捨て子だった顧問格のトムである。ソニーもフレドもその任に耐えないわけで、「ゴッドファーザー」は異端者の本家返りの話である。

ソロッツオと警官を殺したマイケルが身を隠すのがシチリア。その隠棲の日々が、いま一つ完成度が低い。ニューヨークでは死に物狂いで今の地位を保とうとするが、生まれ故郷ではまるで貴族のような扱いである。マイケルが望んで叶わないことはない。
シチリアの女に一目惚れしたその日に、彼女との交際と結婚を父親に申し出るところなど、わざと紋切り型で押した臭さがある。それに、アメリカに残してきた恋人(ダイアン・キートン)のことは一顧だにしないのは、なぜなのか。ニューヨークに戻ってからすぐに求婚するぐらいなら、多少の煩悶があってしかるべきではないのか。
ただし、新妻が仕掛けられた自動車爆破で死ぬシーンは見事である。従者に声を掛けるマイケル、足早に逃げる従者、新妻の乗る車に視線を向けるマイケル、そして叫ぶマイケル……。単純なカットの連続で新妻の突然の死を表現してしまう。喧騒のニューヨークに戻るにふさわしい結末である。

アメリカでは2作目の方が人気が高いが、それはコルレオーネの生い立ちから成りあがっていく過程を追い、イタリア人の気持ちをくすぐるからではないか。

蛇足だが、この映画のタイトルのデザインは絶妙である。上から垂らされた操り人形の糸につながっているのがGod Fartherの文字。パート3まで見ると、よけいに意味深なデザインである。


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