本音が言えない・好きなものも誰にも語りたくない

という壁にぶつかった。

というか、トラウマである。好きなものを語ろうとしたら、とんでもなく心臓が動き出し、手が震えている。怖い。とてつもなく怖い。その思いを昨日経験し、自分はこれがトラウマか、と、好きなことを語ること、本音を語ることをトラウマとして認定した。


トラウマについてちょっとマインドワンダリング

僕が、メンヘラで最低最悪な性格をしてるので、そんな僕の話をする。

自分がトラウマ、と話すけれども、実は頭の中には「他人と比べて全然たいしたことがないのに、トラウマなんて大袈裟。周りに謝れよ」みたいな考えがある。

逆にこれは、周りがたいしたことがないことでトラウマと語ることを許さない、という思想でもある。

それを和らげるためにも、あえて自分にとってはトラウマなんだ、とトラウマという言葉を使った。そうでもしないと、僕はいつまでも他人が気軽に使うトラウマという言葉だけに反応し、怒りを携えてしまう。それをやめるためにもあえて気軽にトラウマとして認定したのだ。


好きなことを語れない人々は意外と多いかも

調べると意外と出てきた。自分にとっては意外である。このような方々には共通点があるようだ。

○幼い頃に親に茶化された経験がある。

○自分の趣味が貶されることを許せない。

○共有してバカにされるくらいなら黙っている方がいい。

○にわかだと思われたくない。まわりより知識や経験がないことを知られたくない。

プライドの高さと、失敗するくらいならやらない、という思考回路、自分の好きなものへの執着心、自信のなさ、家族との信頼関係の薄さ。

どれもメンヘラに当てはまり、自分にも当てはまることである。特に茶化された経験で傷ついてもう二度と心開かないと決めた人も多そうだ。あとは好きなものが理解されなかった経験も傷つく人は傷ついてしまう。

劣等感の強さも、口を閉ざす力になりそうだ。コンプレックスは話せば傷つくだけだ。ただでさえ傷ついてる人間はこれ以上傷つきたくない。勇気だなんだ言われるけど、頭ではわかってるけど、傷つきたくないから傷つかないような行動を取る。それが黙ることであり、隠すことだと思う。

それから独占欲の強さは自信のなさの表れである。簡単に言えば、「自分には魅力(能力)がないから他人が簡単に奪えるに決まっている。だったら見せなければ良い」という単純な思考回路である。

ただ、これは誰もがあることだし、多様化が進む今日ではさらに避けられない事だと思う。そこで後ろの支えになるのがやはり親との信頼関係なのかもしれない。何を言われても自分には味方がいる、という安心感を得られなかった人々が脆い心を砕き、破片をかき集めて心の扉を閉めてしまうのではないだろうか。

原因はわかっても、じゃあこのトラウマどうするんだよ、って話なので、解決策を考えていく。


自意識過剰をまずやめていく

簡単に言えば、好きなことを言えない(本音を言えない)のは、自意識過剰な状態である。自分のことで頭がいっぱいで、自分の見え方、自分の好きなものが奪われるか奪われないかの自分にとっての自分の好きなものの立ち位置、自分の中での好きなものへの価値観のみ、

自分中心の視点しかない状態」ということである。

逆に、自分がたいして好きでもないものに対して、かなり雑な扱いをしている可能性が高い状態だ。好きなものは自分とって宝物であるけれども、他人の宝物については全然配慮出来てない、ということだ。

何故なら自分の評価が絶対だからである。他人の評価を受け付けられないから、自分の好きしかカウントできない。だから、自分の好きしかない人は平気で他人の好きを踏みにじりやすい。

それに経験から人間不信になっている場合には(僕のことだが、自意識過剰とはそもそもに人間不信な状態だともいえるそうだ。下記リンク参照)他人は自分の好きなものについて平気で踏みつけにしてくる、と思っているので、逆に自分も平気で他人の好きなものを踏みつけてしまう。

というか、自分が他人の好きを踏みつけているから、自分の好きなものを表現出来ない場合もあるのではないだろうか。

自分のは見せない。見せないのは好きなものが悪く言われるから。自分が周りの好きなものを批判しているから、当然みんな批判してくるだろう。だから見せることができない。相互的な話もあると思うのだ。

つまり、簡単な話でいえば、

周りを批判することをやめることが、自分の好きなものを表現できるようになる第一歩だと思う。


劣等感が強く、自信のない人は余計に、他人を蹴落とすことでひと時の優越感に浸かる人が多いと思う。周りの他人の好きを否定することで、自分は安心していたいのだ。そして、自分は壊されたくないから、一番大事なものは絶対に見せない。そんなの、ずるくないか?

自分は自分を振り返ってそう考えた。だから、批判も「気持ちいいのはその時だけ。なにより批判は自分の価値を落としているだけ」と自分を律している。もちろん、まだまだ自分は劣等感が強いので、すぐに他人を批判したくなる。自分が正しいと言いたくなる。

でも、それでは僕は、このままだ。

好きなことを語っても、いままで自分が踏みつけた他人の好きなものが僕を呪っている。だから、僕は好きに言えない部分がある。それを認めて、進むしかない。



批判に負けない心は簡単に作れない

進むしかないと書いたが、

こんなのダサい、と言われたのを見返してやる!と自分が努力してプレゼンが上手くなって周りに自分の好きなものの魅力を伝えるように努力して

というのが次に好きなものを語る自信となり、堂々とできる起因になるのだが、これは簡単ではない。そもそも自信がない人ってのは学習性無力感を抱えている場合が多い。がんばったけど、だめだった。できない自分だ、と線を引いている。それを越えようよ!と気軽に漫画や自己啓発では書かれるが、それができていたらこんなにも世の中に自己啓発本が溢れることはない。

それに好きなものを周りに話すメリットがわからない場合が多い。隠しているのがこういう人々のいちばんのメリットだ。傷つかないし、自分だけが幸せでいれる。それは否定しないし、自分もそうだからそれでいい人はそれでいいと思う。

しかし自分は好きなものを表現することはかなりのメリットがあると思っている。思っているし、僕は堂々好きなことを語れる人間になりたい。

自分はメリットを熱く語りたいわけじゃないので、メリットについては下記リンク参考を願いたい。


まず、批判をやめること、とかいた。次に上記の見返して努力!よりもやれることがある。

「他人の好きを認める」ことだと思う。いろんな見方があり、自分の絶対である好きなものには、他人から見たらこんな風に見えている、という視点を感じることだと思う。それができないから黙っているのだと思うけど。

自分にとって、自分の好きなものは絶対であり、めっちゃキラキラしてどの面から見ても最高にしか見えない。それはすごくわかる。そこから一歩引いてみるのだ。

「他人から見るとそうみえるのか…」「この角度だとまた違う面が見れるのか…」好きなものの、いろんな面をみる、のだ。

この当然だろ!ってことが意外と出来ない。できないから好きなことを黙り、隠す人が多いのだと思う。受け付けられないから、黙るのだと思う。

受け付けるにはやはり勇気がいるのだとは思う。結局ここまで書いて勇気か〜って自分でも思っているのだが、自分がこんな状況から抜け出したいと思うならば、やはり抜けるために立って殻を破る行為をしないといけないとは思う。

無理に人と接しろとはかかない。僕もすぐに人と接せないからだ。他人の価値観をすぐに取り入れてしまったら僕も泡ふいて死ぬと思う。

まず他人の語る好きに耳を傾けていく。それくらいなら出来そうなので、人の話をよく聞いて、よく見ていこうと思う。




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