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シリーズ:生きながら死んでいる存在~私と周りの障害者たち~ 第5話 我ハ誇リ高キ理系デアル

自分とYとの出会いは幼稚園までさかのぼる。幼稚園では組が違ったのでほとんど交流はなかったが、小学校に上がると家がほぼ隣同士なのですごく仲良くなった。仲良くなった理由は変なもので、1年生の間は基本的に毎日集団下校で、集団下校の並び順は学校が家に近い順なのだが、少しでも早く帰宅したいYと自分と、だらだらしゃべりながら帰宅する自分たちより先を歩く男子数名と毎日のように歩くスピードについて喧嘩をしたからだった。

仲良くなると毎日のように遊びに行って、今日はYの家だったから明日は自分の家、という風に毎日毎日遊び続けるのであった。

自分が変わり症だったと思うのが、Yの家で出されたものに一切口をつけなかったことで、なんだかおかしとかジュースとかを無償でいただくのは卑しいみたいな気持ちがあって、結局Yの家で出てきた飲み物を平気でがぶつくようになるのは高校生くらいになってからである。トイレを借りるのも恥ずかしくて、家は歩いて10秒のところにあるので、どうしてもというときは自宅に帰って済ました。

Yと自分の友情は健やかに育まれた……といいたいところだが、自分はYにコンプレックスを抱えていた。彼の家庭は家庭円満を絵にかいたようなもので、冷え切った(そう当時は思っていた)我が家とは大違いだった。毎年1~2回行く家族旅行も我が家にはなかった。小学校の時からYの家にはパソコンもインターネット環境もあった。それも我が家にはなかった。なのでYは自分が知らないようなことをよく知っていて、「○○って知ってる?」から始まる彼の自慢話にはコンプレックスをこれ以上なく刺激されて、○○って知ってる?という問いに「し、知ってっし」といつしか去勢を張るようになっていた。このころからこの2人の関係には歪みが生まれていたといっていいだろう。

小学校も高学年になるとお互い友達は相手だけみたいな状況にどちらともなく居心地の悪さを感じ、特にYはそれが顕著だったので新しい友達探しをすることになる。しかし、ド田舎の田んぼのど真ん中に建てられた小さな小学校、クラスは1つだけなのでクラス替えもできるわけもなく、つまり小学校1年生から小学校高学年のこのときまで、クラスメイトは変わらないのだから新しい出会いなど望むべくもないのだった。

しかし奇跡が起きた。クラスの上位カーストのひっつき虫をしていたTくん(別話のTとは無関係)と仲良くなることに成功したのである。ただ、これは友達を強く求めたYではなく、どちらかと言えば自分になつかれたので、Yは面白くなかったのだろう、彼は彼でうまくやってSくんと仲良くなる。

ここでそれぞれ距離が少し離れることになるのだが、自分はYの友人は自分だけだという謎の依存症というか束縛癖を発病し、TとともにYを支配しようとするのである。これは全くうまくいかないし、何ならそれのせいで余計心の距離が開いた気がした。

そういえばよくわからない嘘を言われたことがあって、一瞬信じてしまったのだが、YはIBMに任命されたホワイトハッカーで、毎日ミッションが送られてくる……という意味不明な設定が一時期だけあった。謎のキャラ設定である。

友情探しもそこそこに中学校に進学した我々は、隣の学区の小学校の卒業生たちとクラス分けという初体験の中、完全にアウェーにいた……気がした。向こうの小学校卒業生はお互いをほとんど知っているがこっちはほとんど知らない。非常に不公平なシステムだと思ったが、うまくやって入学式当日に自分にしては珍しく新しい友人ができた。Yもできたようだった。すべてがうまくいっていた。

中学校になってもあまり距離を縮めすぎるとクラスの男子から「なんだお前らいっつも一緒にいて、ホモじゃんww」とイジリといじめの中間みたいなことを言われるのである程度距離を放しつつ、保っていた。

そういえばこのころ、特にYが倒れこんでしばらく無反応で、と思ったらいきなり起き上がって「今は何年何月何日だ?!」という反応が多かった。そういう奇行をするキャラだったのでクラスメイトも全く相手にしていなかったが、今のデータを突き合わせるとあれはまごうことなきパニック障害の症状だったわけである……ことは当時の我々は知る由もない。

そんな状態のまま進学シーズンを迎えるのだから、向こうがこっちと高校を被らないようにするのは当然だった。電車で1時間近くかかる高校に進学するとか言っていたが、自分は自転車で行ける父親も卒業した高校を選択した。しかしなぜだかYは高校選択に妥協しなくてはいけなくなり(理由はいまだわからない)、自分と同じ高校に進学することになる。2人とも実は学力的に微妙な合格ラインだったが、その年たまたま募集定員割れを起こしたおかげで何とか公立高校に滑り込むことができて本当によかった。

中学校の卒業式の後、YはNさんを呼んだ。告白することは明白だった。

彼の態度はある種露骨すぎた。自分やT(これは第1話のT)がNさんに話しかけるとすぐYがやってきて「い、今何話てたの」と詰問されるからだった。嫉妬は明白だった。そもそもきっかけは小学校時代にさかのぼる。数年越しの好意だった。

呼びだした場所に無言で立ちつくす2人。覗き込む自分。なかなか始まらない会話(これは後から知ったが、Yの位置からは自分がモロ見えだったからどっかいけというジェスチャーをしていたということらしい)。開始から30分。答えは返ってこなかった。相手は泣きながら走って帰ってしまった。Yは自分が隠れているところにきて「おい、どうだ、これで満足か」と怒っていた。怒るのも無理はなかった。

これまで中学3年間含め9年間同じクラスで学んでいたが、高校ではさすがに別のクラスになり、お互いあまり没交渉だった。もちろん関係が悪化したわけではないので、たまに話したりはするが、自分がYに抱いていたコンプレックスも雪解けのように霧散し、我々は「普通の関係」をやっともてていた。

なお、商業高校に進学した2人だったが、肌が合ってとても充実していた自分と違って、カリキュラムに全く合わなかったYは自分のことを高校には行ってない、俺はスクールオブロックの生徒だ!とか平気で言っていた。そんなに嫌なら中退して大検を受けるとか通信制に移るとかもあると思っていたが、あえてスルーしていた。相手にするのが面倒だった。

高校も2年の冬には進路選択の段になってくる。商業高校では通常高校のカリキュラムの半分も勉強しないので、センター試験利用入試はほぼ望みなしだった。3:3:4で大学、専門学校、就職だった。3割の大学進学希望者は指定校推薦枠を取り合うか、ランクの低い大学にAО推薦入試で入学するのが常道だった。当時成績が上位だった自分は日東駒専の指定校推薦の申請を決めていたが、Yは鳥人間コンテストに出たがっていた。当時ピアノを習っていたので音楽関連装置を自分で作りたいとも言っていた。ということでYはわが高校から、文系学科に数十人進学する某大学の、「工学部」を目指してAО推薦入試をするのである。

彼の商業高校での成績は中の中で、特筆すべきものはなかった。全商系の資格を多く取得しているくらいが自慢できるものだった。ただ、小論文と面接だけの試験で学力検査はないので、もしかしたら合格するのかもしれなかった。

試験日、自分は確か土曜日か何かで休みだった。携帯電話が鳴った。Yが号泣しながら電話してきた。曰く、面接中にパニック障害の発作を起こして保健室にいるとのことである。絶対不合格になったといって号泣するYをなんとかなだめすかしたが、自分も不合格に違いないと思った。結果は合格だった。懐の広い工業系大学だった。

大学でとうとう進むべき道が分かれた我々は、年に3回くらい会う関係になっていた。ちょうどいい関係だった。高校時代の共通の友人(2人とも就職コース)とも会えるのが楽しみだった。しかし、会えば会うほど会うのが嫌になっていった。どうやら大学の教員たちはほとんどが東大出身者なのだが「理系は人材として格上」「文系は下位互換」「理系が売り上げを立てて間接部門の文系を食わせてやってる」「文系にできて理系にできないことなどなにもない」という洗脳をうけてきたらしい。我々に「文系は下位互換だからな~~」と言ってきたのを今でも思い出す。しばらくこの理系マウンティングは続き、その期間は意識的に避けるようにして会わないようにした。

Yにとって大学に通うことにもう一つ、楽しいことがあった。中学の卒業式で告白したNさんが同じ大学に進学していたのだ。学食で…教養科目で……会えるかもしれない。まだあきらめきれていなかったのだった。しかしNさんは2年の半ばでいきなり大学に来なくなってしまい、音信不通になるのだった。

それやこれやとあったが、一応大学生活を謳歌していた我々に卒業が迫っていた。

国家資格の受験に全精力を振っていた自分は卒業できるかどうかで苦しんでいた。一方、必要単位は順調に取れていたYは所属しているゼミの教授の勧めもあって大学院に進学する予定らしかった。商科系のゼミの必修ではない自分には想像もできない話だった。

しかし彼の人生はここから急に波乱万丈を迎える。無事大学院に進学したYだったが、パニック障害の発作が頻繁に起こるようになってしまい、とうとう大学に通学できなくなってしまう。半年の休学届を提出して、様子をみることにしたが、どうやらすぐに治るような話ではなかった。奨学金の残高は積みあがっていた。学部からすべての学費を奨学金で賄っていたYには選択肢はあまりなかった。Yは大学院を中退することになった。

数か月仕事探しをすると、大学の先輩から穴場の仕事があると聞いたらしい、それは水道事業団の準公務員だった。Yの受験した回には受験者は4人だった。実際に受験したのは2人だった。Yは採用された。

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