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森を満たす不穏な残響 (『echo』/澤田サンダー)

まったく別の用件で訪れた青森の国際芸術センター青森[ACAC]で、ちょうどそのとき展示されていた「ヴィジョン・オブ・アオモリ vol.11/澤田サンダー|echo」について、せっかくなので何か書いてくださいとお願いされて書いたもの(一応は映像が専門と目されたためだろう)。今でも、いわゆるギャラリー展示における映像作品は頭から見るべきか、実はどこから見ても良いのか(むしろそれを推奨しているからこそギャラリーで展示しているのか)考えることがある。むしろ、作家や企画者ははっきり示してほしいと思ってしまうのは、自分は「映画の側の人間」の証左なのかもしれない。
初出:『AC2(エー・シー・ドゥー)』16号 (発行:青森公立大学国際芸術センター青森[ACAC]/2015年3月)


「ヴィジョン・オブ・アオモリ」という企画からして、青森のどこかで撮影されたことは想像に難くないが、郷土の美しい自然を誇るそぶりもなく、冒頭から不穏な感情を抱かずにはいられないショットが続く。慌てているのだろうか、木の枝をこすりながら山道を抜け走る車。夜空と静謐な森、そして、その森でただならぬ事態が起きていたことが告げられる。土の下から這い出してくる女性。汚れた顔と縛られた手首、そして、足首まで下ろされた下着。乱暴された女性を示す際の典型的な描写によるサスペンスの予感。

劇中、彼女は一言も言葉を発しない。それどころか、だれともコミュニケーションを取ることが許されておらず、もう一人の登場人物である男性とは、映画的な編集によって視線を交わすことすらできないようだ。彼女はもはや存在していない人物、つまりは幽霊や幻影なのではないかという思いが頭をよぎると、たちどころにホラーの様相を帯びてくる。森から出てきた彼女はすでに死者ではないか。そうであれば、誰も彼女が見えないかのように振る舞うのもうなずけるし、誰かのベランダから盗んだ着替えがまったく同じ服であることもそれらしい演出に思われてくる。

おおよそフィクションである映画とは、それが嘘だと知っているからこそ、心おきなくその世界に没入できるものである。なぜ人が好んでそんな倒錯した趣味を持つのかはわからないが、サスペンスやホラーはその映画の本質的な部分に根ざしているものであり、不安や恐怖で宙づりになったまま身をゆだねる快楽を与えてくれるという点で、澤田サンダーという、名前自体が木霊的響きを持つ作家がつくった『echo』は、間違いなく映画、あるいは映画的なものと言って良いだろう。本作に先立って行われたワークショップの題が「映像というよりは映画の準備体操」であることからも、自覚的に映画を作ったことは察せられる。

それにしても、作家の郷里である青森を舞台にしながら「映っているものはさほど重要ではない」と言わんばかりに物語は進む。ヒッチコックの言うマクガフィンのように、あらゆるショットが物語を進めるための小道具でしかないのかもしれない。何やら意味深長に映るにも関わらず、確かな目標は示されぬまま、動く主人公を追ううちに場面が変わっていき、私たちは否応なくそこに物語を見いだすが、しかし、その実何が起きたのかよくわからないまま映画は終わる。

ところで、大抵の場合、映像展示と称されるものは出入りが自由にできる環境で繰り返し上映されるものであるが故に、しばしばその作品を「はじまりから見ること」に失敗してしまう。昔ならばともかく、映画館で見る映画ならば、入替制が徹底された今日では、途中から見始めて、次の回に冒頭を見るという経験はもはやありえないし、見る方も、また、作り手もそれを良しとはしないだろうと思うのだが、なぜか美術の世界ではあまり気にされない。私は映画の側に近い人間だから気になるのかもしれない。

実は、書き始めに蕩々と冒頭のショットを記述しておきながら、私はこの作品を会場では途中から見はじめてしまった。15分あまりの短い作品であるし、どこから話が始まっているのかつかみきれないままだったので都合2.5回ほど見て部屋を出たときには、タイトルが示す通りすべてのショットが木霊のように少しずつ異なる意味を持って立ち上がり、かえって曖昧で謎めいた感触だけが残った。繰り返し見ればわかるのではなく、繰り返し見るとわからなくなったのだ。今、この文章を書くために自室に籠もりモニター上で再び見返しているが、画面や編集から物語を分析するのは間違いなのではないかと思い始めている。むしろ、あの雪深い建物の一室に籠もって繰り返し見続け、次第に始まりと終わりすら曖昧になってしまうこと——それこそ、この作品の完成された状態なのではないかと。

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