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聖地には蜘蛛が巣を張る (監督:アリ・アッバシ/2022年)

イスラム教と言えば厳しい戒律に律された社会が想像されるが、そんな国でも世界最古の職業である娼婦は存在するらしい。イランで実際にあった娼婦を狙った連続殺人事件をモチーフにした、それも、リベンジポルノでイランからフランスへ亡命を余儀なくされたかつての国民的女優が主演するサスペンス映画。スキャンダラスな実話ものかと構えて見始めたものの、始まって早々に犯人は明らかとなってしまう。それによって、この映画のサスペンスたる所以が殺人鬼の凶行そのものではないことはすぐに分かったのだが、ではどこがサスペンスなのか?

それは、女性というものに対する、イスラム社会の文化、制度、コミュニティそのもののグロテスクさが次々と露わになることのように思われた。ジャーナリストである主人公・ラヒミは、イスラム社会としては進歩的な女性を代表している。ヒジャブ(女性が頭にかぶる布)もぞんざいにかぶり、髪も短いしタバコも吸う。殺人事件の取材で訪れた聖地マシュハドでは、未婚の女性は一人でホテルに泊まれない(私はそれが彼の地で一般的なことなのかすらわからない)。女性と見れば警官も判事もジャーナリストとしては見てくれない。とにかく女性というだけで様々な制約があり、態度を変えられる。そんな男性たちの振る舞いは滑稽にすら映る。イランはイスラム教の古めかしい価値観に囚われた後進国に違いない。

とにかく男性たちは無様である。頼りないか、欲に溺れているか、郷愁にしがみついているような人ばかりだ。正直なところ美男とは言えない顔のアップが多様され、不穏な低音が頻繁に使われるこの映画では、ラヒミの凜とした表情や物言いが際立つだけである。殺人鬼にもまったくもって知性や透徹した悪を感じない。さらに言うならば、殺人鬼の息子がいかにも愚鈍に描かれているのも気になる。締まりのない口元や、中学生くらいと思われる少年独特のぎこちない身のこなし、さらには、大衆に吞まれて奇妙な自信をつけ力を宿す目つきまでが、まさに愚かな男性(厨二病的)を体現している。そもそも映画というものは、あるいは、イメージというものは残酷なものであるからして、愚かしい外見をしている者は愚かな人物に決まっているのだ。あるいは、男性というものはそもそも愚かとでも言いたいのだろうか。見ている自分自身が男性の一人として極めて居心地悪くなった。

ところで、映画館の帰り道、どこがサスペンスだったのだろう?ともう一度問いなおした私は、少しの時間をおいて震えだした。滑稽ですらある後味の悪いこの映画の舞台となった、異なる宗教を持った遠くの彼の地は、その中心に殺人鬼がいないだけで、自分が生きている今の日本社会とさほど変わらないのではないだろうか。



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