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大澤真幸・木村草太『むずかしい天皇制』・笠井叡「霊的天皇論」

☆mediopos-2389  2021.6.1

大澤真幸が「天皇」「天皇制」について
熱く論じている二冊がでているが
天皇について思想的に語ることでは
天皇とそれに関わる現象について語ることにはなるが
天皇という存在について深く語ることにはならないようだ

「天皇制はむずかしい」
「空気があることの最後の保障として、日本には天皇がいる」
天皇は「性的な両義性を呈する」(<女としての天皇>)
といったあたりの着地点でしかなく
結局のところ「天皇」について
その深みにあるなにかが見えてくるわけではない

そこでかつてあった「アーガマ」という雑誌で一九九〇年に
<天皇靈>について特集していたことを思い出し
ひさしぶりに「天皇」を「天皇霊」という
民族霊的な役割を持った存在としてとらえている
笠井叡の「霊的天皇論/魂を贖う日本民族の使命」を
読みかえしてみることにした

笠井叡もその論の最初と最後に述べているように
「ある人が天皇について語ったときには、
その人の思想の核心が、それから思想の体質が、
かならず出る」というのは正しいようだ
大澤真幸の天皇論で憲法や民主主義との関わりが
論じられているものそれだろう

「天皇制はむずかしい」という
その「むずかしさ」の中身が
思想的に語るか政治的に語るか霊的に語るかでは
ずいぶん見えてくるものが異なっている

神秘学的視点のない場合
理解がむずかしいかもしれないが
霊的にみた天皇・天皇霊について
笠井叡の視点を少しだけ整理してみることにする

まず霊的ヒエラルキーに関していえば
個人に働きかける霊的存在は天使であるのに対して
民族レベルで働きかけるそれは大天使
さらに人類全体に働きかけるそれは時代霊である

天皇霊は民族霊としての大天使存在だが
その民族霊はほんらい時代霊の働きをうけるはずが
その働きを受けなくなっている大天使という
進化上少し特殊な霊存在となっている

言語は民族霊ごとに形成されるので
日本語による文化形成に深く関わってきている
かつて朝廷において「和歌」が勅撰されたりしたのも
そうした背景もあるのかもしれない

言語といっても
ほんらいの言語は主として三つの形態があり
最初に人類がもった言語が魔術言語
次に出てきた言語が秘密言語
そして私たちが普通使っている言語の概念言語であるが

「言霊」といわれる言語は
魔術言語や秘密言語ともかかわっている
きわめて霊的な言語である(あった)ということができる
おそらく「うた」というのは
かつてのそうした霊的なものを背景として
うたわれていたものであるともいえる

そのように天皇霊は日本語をもった日本民族に
さまざまに働きかけながら
(決して民族主義的なものではない意味での)
「民族魂の使命」を果たす役割を
演じてきたということができる

そしてそれが現代において
さまざまな形で揺れているのは
時代錯誤的にさえ見える「天皇制」そのものを
問い直す必要があるからなのだろう
現在の天皇の子供が女性一人だけというのも
その問い直すプロセスを暗示しているのかもしれない

その意味で「天皇制はむずかしい」のは
笠井叡も示唆しているように
「天皇霊が宇宙から個人に至るまで、
あまりにもたくさんの大きな問題を、
日本のなかで背負った存在だから」だといえそうだ

さて大澤真幸が
「空気があることの最後の保障として、日本には天皇がいる」
といっている「空気」ということについてだが
その「空気」こそが
ユング的にいえば元型として
集合無意識的の働いている民族魂の働きでもあって
「空気」にはさまざまな層があるだろうが
民族としてのもっとも底に働いているのが
民族霊としての天皇霊だということもできるのかもしれない

そして現代ではその「空気」も
時代霊からの働きかけによって
次第にゆらいできているということもできそうだ

■大澤真幸・木村草太『むずかしい天皇制』
 (晶文社 2021.5)
■大澤真幸・本郷和人『<女>としての天皇』
 (左右社 2021.2)
■『月刊アーガマ No116 '90年11月・12月合併号/総特集<天皇靈>』
 (阿含宗総本山出版局 1990.10)

(大澤真幸・木村草太『むずかしい天皇制』より)

「大澤/天皇制はむずかしい。日本人にとっては、それがむずかしいということを知ること自体、すでにむずかしいことになっている。
 天皇とは何か。天皇制は何のための存在しているのか。天皇の家系は、どうして他の家系と比べて特別に高貴なのか。こうしたことを誰にも納得できるように説明することは、とてもむずかしい。おそらく、説明できる人はいない。しかし、日本人にとっては、天皇(制)の存在はあまりにも自明なことであり、それゆえ日本人は、自分が、説明困難な制度を前提にして行動している、という自覚がない。つまり、天皇制はむずかしく、とても不可解な制度だということに気づくこと自体が、まずはむずかしい。
 だが、いかにむずかしいとしても、天皇制こそそが、日本人である「われわれ」は何者なのか、を理解する上での鍵である。天皇制を理解することは、日本社会の中のひとつの政治制度や特殊な文化様式を理解すること(につきるもの)ではない。天皇制を見ることは、結局、日本人と日本社会の歴史的な全体を見ることに直結している。
 日本列島の住民は、歴史上一度も、天皇や朝廷を根本から否定したことはない。否定の度合いが最も大きかった出来事は、承久の乱だが、そのときでさえも、勝利した武家政権(鎌倉幕府)は、朝廷の主立ったものを配流しただけで、制度としての天皇・朝廷を温存した。どうやら、日本人には、天王星を否定しきることはできないらしい。正確にいつとは特定できないはるかな昔に始まって、今日に至るまで、一度も、正面から挑戦を受けることなく、存続してきたのだ。」
「しかし、真にむずかしいことはその先にある。これほど長く続いたとすれば----誰も本気には終わらせようとしなかったとすれば----、日本人は、天皇や朝廷を、よほど強い忠誠心をもって支持してきたに違いない……と思いたくなる。が、歴史の実態を見れば、そのような解釈はあたらないことは明らかだ。日本の歴史の多くの期間----「ほとんどの期間」と言っても過言にはならないくらい多くの期間----、日本人の大半は、天皇や朝廷に無関心である。日本人は強い尊敬の念をもって天皇に帰依していた……とはとうてい言いがたい。」

「大澤/日本人にとっての意思決定は「空気」です。天皇がいても、いなくても、それは変わりない。ただ空気は、僕らが一致してそう考えているという想定が必要です。客観的にみれば。本当はどうか知りませんよ。みんな意見がバラバラかもしれない。しかし、それでも、一枚岩の同一的な空気が存在しているはずだという、先験的な想定が、日本人の集団や共同体を成り立たせている。空気にとって「同一性」は本質的な条件で、「多様な混合気体のような空気」というのは、空気の自己否定、自家撞着のようなものと考えられている。でもそんな不純物のない空気なんて存在していない可能性があるわけです。そのために、普通はたとえば多数決によって決めたりするわけですが、日本人は、空気があることが前提ですから、その前提が成り立っていないことをあからさまなものにするかもしれない多数決はあまり好まれない。とにかく日本人は空気が存在していることに、絶対の確信を持っている。少なくとも、誰もがそのような確信を持っている、という想定で行動する・「空気が読めない」と批判されたりするのも、空気が存在しているからです。その空気の、最後の最後の砦が天皇なんですよ。天皇がいる以上、日本に空気は存在するんです。そして、天皇がいる以上、かならずその空気が見出されるのです。
木村/みんながそれを求めていると。
大澤/そうです。だから天皇が原則的に判断することが重要なのです。天皇は、普通は、積極的に判断しない。もし判断するとしたら、天皇は一番最後に判断するのが原則。そうしてかというと、天皇は空気を追認しているわけです。空気が定まったところで、天皇が、実は私もそう思っていた、ということを言うわけです。」
「定義上、天皇が言った以上は空気なのですが、普段は天皇が言わなくても空気が発見されるようになっている。そして、空気は発見されるためには、空気が絶対にあるという確信が必要なんですよね。空気があるから発見されているのではなく、空気が必ずあると思いながら生きているから、結果的にはある。空気があることの最後の保障として、日本には天皇がいるのだと僕は思います。」

(大澤真幸・本郷和人『<女>としての天皇』より)

「大澤真幸/「天皇」は、日本人とは何者かを知るための鍵である。」
日本人にとって、天皇は、どのような意味で必要なのか。なぜ天皇制を廃棄することができないのか。日本人自身にも実のところよくわかっていない。外部から日本社会を観察している者にとっても天皇制の存続はふしぎなことに見えるだろうが、当の日本人にとっても、いや日本人自身にとってはとりわけ、それは溶かれていない謎である。」

「今日、日本人は、女帝を認めるべきかどうか、などということで大騒ぎの議論をしている。この議論は、天皇は男であることが圧倒的な原則である、という前提でなされているが、折口の見るところでは、まったく逆に、女帝の方こそが、天皇の本性に近いところにいる。もし男の天皇と女帝のどちらかを取らなければならないのであれば。後者を取るべきであり、女帝さえいえれば、男の天皇はいなくてもかまわない。折口はここまで言っているのだ。
 私は、「女帝」をめぐる折口信夫の議論に説得力があると考える。しかし、歴史学者や民俗学者で、以上の折口説をそのまま受け入れている人はごく少数だろう。が、仮に個々の事実の認定に関して折口にいくつかの誤りがあったとしても、あるいは大嘗祭の個々のアイテムは『古事記』『日本書紀』のいくつかの文言についての折口の解釈に過剰な想像が含まれているとしても、それでもなお、折口説を支えている基本的な直感は、天皇の本性についての深い洞察を含んでいると言えるのではないか。折口が直観したこととは何か。繰り返せば、それは、天皇が----その生物学的な性別とは別に----女性性を帯びているということ、それゆえ、天皇は性的に両義的であるということ、これである。
 この洞察は、われわれの探求にとってはきわめて有意義だ。というのも、武士との関係において天皇を見たとき、天皇はまさに性的な両義性を呈するからである。天皇をはっきりと男とみなすわけにはいかない。天皇はむしろ女性的でさえある、というような両義性を、である。」
「武士が----その圧倒的な実力にもかかわらず----天皇制を排除しなかったのはなぜか(…)。天皇の本性が(折口信夫が直観しているように)女性性にあるとすれば、武士もまた、天皇との関係においては、つまり天皇に自らを託して自身のアイデンティティを核にしようとしている限りにおいて、言わば、女性化しているはずだ。」

(『月刊アーガマ 総特集<天皇靈>』〜「笠井叡「霊的天皇論/魂を贖う日本民族の使命」より)

「まず最初に言っておきたいことは、ある人が天皇について語ったときには、その人の思想の核心が、それから思想の体質が、かならず出るということです。同時に、思想の構築の甘さが出るということです。良い意味でも悪い意味でも、天皇について語るというこよはそういう側面を持っていると思います。」
「天皇にはさまざまな側面があります。政治的存在としての天皇という側面もあれば、眼に見えない霊とか魂とかということにまつわる問題、つまり宗教的な側面での天皇があるし、また、三島由紀夫が『文化防衛論』で述べたように、文化としての天皇という側面もあります。政治的な意味での天皇については、歴史的にある程度ははっきりさせることができるけれども、文化的側面としての天皇というのはかならずしもはっきりしているわけではありません。なぜはっきりしないかというと、文化的側面としての天皇は、かならずしも体制の内部にいる人間ではなくて、体制の外にいるからなのです。だから、テロを指図するぐらいの無名のエロス的な力があるわけです。これは三島氏独特の見方です。
 文化的側面としての天皇と霊的な側面としての天皇、あるいはシャマンとしての天皇は、おそらく非常に深い関係にあると思います。いずれにしても、天皇あるいは天皇制が、あまりにも包括的な問題を抱えているために、語れば語るほどその人が持っている思想の癖なり体質なりが出てきてしまうのだと思います。」

「天皇の霊的な意味も含めて権力を移していく三つの儀式がありますね。まず践祚の儀式、三種の神器を渡す儀式ですね。そのあとに即位の礼があって、第三番目に大嘗祭と続きます。この大嘗祭というのは、天皇例という実態を受けとる器に天皇がなることだと、折口信夫が初めて言ったわけです。つまり、大嘗祭の神座である衾をかけた寝所に新しい天皇はひきこもり、物忌みし、天皇霊を受けて天子としての資格を得るというのが、折口の考える大嘗祭です。」
「この三種の神器の儀式を神秘学的な側面から見ると、それは人間の持っている三種の能力を受け取る、という意味になります。鏡に代表される霊視の力、剣に代表される霊的な実行力、勾玉に代表される霊とのつながり死者とのつながり、こういう三つの霊的な力を受け取る儀式が、三種の神器の儀式ですね。」
「そこでさらに、大嘗祭を国事行為とするならば、つまり、天皇例を受け取るための器の儀式を国事行為にする、法制化するならば、日本の政治形態にとっては、ある種の決定的な問題を方向づけることになるだろうと思うのです。それは、現代の国際社会のなかで、日本民族の役割をどう考えるかということにかかわる、霊的な、とても大きな問題なのです。
 どのようにすれば、天皇制を正しくとらえることができ、天皇と政治のかかわり、あるいは国民との関係を正しく関係づけられるかということを、本気で考察しようとしますと、少なくとも霊学をひととおり全部めぐることが不可欠になってくるわけですね。それだけ天皇制というのは、民族の霊的な部分、つまり、神秘学的な核心にかかわっているわけです。天皇は単なる象徴であるとか、あるいは、大嘗祭は単に形式的な儀式だというようには、とても言えないのですね。
 いまお話ししたいと思うのは、政治的な意味での天皇制ではありません。人間の魂や霊というものを、ひとつの現代人の思考をとおしても納得できるような霊学の方向から、天皇制の問題の核心が見易くなるようなかたちでお話できればと思うわけです。」

「大天使は(・・・)個人に働きかけることなく、ひとつの民族に働きかけます。大天使が民族に働きかけるには、まず天使に働きかけ、天使が人間に働きかけるということになります。では、大天使はどこからの働きかけを受けるかというと、時代霊からということになります。
 仮に、日本がまだ律令体制をつくる前の、どういう政治体制であったかほとんどわからないような時代を、アニミズムの世界とか、あるいはシャマン的な世界とか言っておきましょう。およそ、紀元前三〇〇〇年から、紀元前一〇〇〇年ぐらいまでの、約二千年ぐらいの間が、アジアにおいてアニミズム、あるいはシャマニズムのつくられた時代ですね。高橋巌氏は、アジアの道教とか儒教は、たぶんシャマニズムから発展したのではないか、ということを言われたことがあります。ここで言うシャマニズムとは、そういう道教や儒教が成立する以前の時代のシャマニズムのことです。
 このシャマニズムには、時代霊の働きかけがあるのです。シャマニズムは、アジアだけではなく、地球上あらゆるところにあるわけですが、こういう時代を特徴づけるものには、霊界からの働きかけがあります。時代霊が大天使に働きかけて、シャマニズムという方向づけをするのですね。
 この場合に、大天使は人類そのものに働きかけるのではなくて、ある特定の民族と結びつこうとします。そこで大天使は。アジアのある地域における民族霊、それからアメリカのある地域における民族霊という具合に、別々なものとして、時代霊からの働きかけを受けます。シャマニズムという内容はひとつなのですが、それが地上にあらわれてくる場合には、それぞれの民族霊が引き受けるために、そこでさまざまな形態があらわれてきます。
 たとえば、言語がなぜこんなにたくさんあるのかというと、言語の数だけさまざまな大天使(「進化を断念した形態霊」)の存在があるからです。」

「天皇霊も大天使の存在です。けれどもこれは、いまお話したように、時代霊の働きを受けなくなっている、この大天使です。
 大天使は先ほど言いましたように、人間の生命体の部分を、自分の自我で自由に扱うことのできる高次の存在ですから、我々の肉体に対して、エーテル体となって深くかかわってきます。それは、天皇霊も含めてです。
 それだけではなくて、大天使は、土地のエーテル体にも働きかけます。」
「そしてこの大天使が、「進化を断念した形態霊」によって民族のなかに形成された言語をとおして。言語の文化を決定づけます。ですから、天皇霊は、日本語による文化が形成される途上では、強い働きかけを与えてきたのですね。
 ここで言語の発展を人類史的に考えてみますと、そこには、主として三つの形態が考えられます。その第一が魔術言語です。これは、人類が最初に持った言語ですが、ある種の母音や子音を発することによって、植物の生長を変えるとか、動物を静かにさせるとか、病気を治すとかう、呪術に結び付いた言語です。
 次に出てきた言語を、秘密言語と言います。普通神秘学で秘密文字と言っているものです。秘密文字では、あらゆる存在が自分の名前を語るのです。」
「それから、第三番目に出てきた言語が普通、私たちが用いる概念言語です。」

「秘密文字のなかから出てきたのが神話ですから、神話のなかに出てくるさまざまな現象は、概念をあらわしているのではなくて、秘密文字をあらわしているのです。そのため、神話には、読み方によっては大変な力があるわけです。ですから、日本の神話で八百万の神々に名前がついているということ、これはすごいことなのです。」

「天皇霊というのは、この魔術言語と秘密文字との二つを持っているのですが。概念言語と結びつくところの時代霊との結びつきは、非常に弱くなっています。
 時代の流れから言うと、第二次大戦の終結まで、秘密文字と結びついたところの天皇霊の働きが、現実に、日本の文化のなかの大事な部分と結びついていました。(・・・)秘密文字以降の時代霊の働きを受けて、自然科学的な思考や、哲学的な思考や、あるいは、人間を一個の自立した存在として見ようとする人たちも、明治以降、あるいはそれ以前からもたくさんいました。ところが、ある意味で退化した大天使、進化することをやめてしまった大天使の働きかけが、日本民族のなかに非常に深くあるために、民族霊のあり方が、きわめて重層的になっていったわけです。」

「自分自身を知るよりも、民族そのものを知ることのほうがはるかに困難です。いまの時代霊からの働きかけは「民族自身を知れ」あるいは「民族の役割を知れ」ということであり、これは、(・・・)イデオロギーでは解けないわけです。現代において知るべき民族の役割は、かつての「民族主義者」のような意味での役割でないことはもちろんですね。」
「日本民族には日本民族の役割がある、スラブ民族にはスラブ民族の役割がある。これを知らなければ、ほんとうは民族について語れないわけです。ところが、これまで民族の問題は、それを正しく認識しようとはしない、「民族主義者」の手にゆだねられてしまっていました。この状態から脱することを可能にするのは、左翼的な唯物論的な天皇批判ではなく、神秘学的な洞察にほかなりません。
 つまり。人間と天使と大天使と時代霊との、あらゆる宇宙の結びつきのなかで、宇宙の役割を、地球の役割を、そして地球のなかの民族の役割から個人の役割というものまでを洞察することです。これができない限り、絶対に民族について語ることはできません。そうでなければ、語ることによってますます民族を歪曲するだけです。」

「天皇の問題を語ると、その人間の思想の核が暴き出されるということは、天皇霊が宇宙から個人に至るまで、あまりにもたくさんの大きな問題を、日本のなかで背負った存在だからなのですね。」

「アジアなり日本の持っている民族の使命というものを果たすうえで、そういう時代霊の働きを受けようとしない時代おくれに見える大天使の働きが、マイナスがプラスかというと、明らかにプラスなのです。だから天皇制をもっと広げろ、ということではないのです。天皇制そのものを否定するのではなくて、天皇制の持っているドン・キホーテ的な、時代錯誤に見える在り方を正しく克服する使命が、我々にあるということなのです。はっきり言えば、天皇制は反面教師なのです。」

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