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ボルヘス『夢の本』・『七つの夜』

☆mediopos2947  2022.12.12

昨日(2022.12.11)勅使川原三郎のダンスを見る
NHK日曜美術館
「Be yourself 汝自身であれ 勅使川原三郎」

2022年のベネチア・ビエンナーレで
ダンス部門の金獅子功労賞を受賞し
そのオープニングでおこなう記念公演で
「ペトルーシュカ」を上演している

「ペトルーシュカ」は1911年
パリのシャトレ座で初演された名作バレエ
命と心を持ったピエロ人形のペトルーシュカは
人形遣いの座長から自由になろうとするが
踊り子の人形への恋にも破れ
孤独と絶望の中で息絶え
ラストシーンで亡霊となり
その理不尽に怒りの叫びをあげる・・・

そのなかで勅使河原/ペトルーシュカが
顔に貼り付いているマスクをむしり取る演出があり
じぶんのマスクが剥がれたら・・・と
おもわず深く引き込まれてしまったのだが

そのシーンの意味について
芸術監督のウェイン・マクレガーは
「自己のありのままをさらけ出」することだとし
ありのままに世界と向き合うことの難しさを語っている

それに関連して番組のなかでは
こんな勅使河原三郎の言葉が紹介されていた

「孤立することを選び 恐れることを選び 汝自身であれ」

さて前置きが長くなったが
ボルヘスの『夢の本』である

ギルガメッシュの物語からはじまって
さまざまな夢の断片が引用され収められているが
夢の物語のなかでもっとも顕著なものは
以下引用してあるルイス・キャロルの
『鏡の中のアリス』のなかの
「目を覚ましたら、あんたは
ろうそくのように消え失せてしまう」話のように
「自分は誰かの見ている夢にすぎないという夢」である

ある意味で夢から覚めるというのは
マスクを外すようなものである
外したとたんにそこにはなにもないかもしれない
このじぶんが消えてしまう

ボルヘスは迷宮か鏡の悪夢を見るのだという
クレタの迷宮そして
壁や扉が鏡になっている円形の部屋で
無限の迷宮の中心にいる
その二つの夢は異なるものではなく
二つの鏡があればそこは迷宮となる

そして自分が鏡に映っているのを見るとき
仮面をはずして
「自分の本当の顔を見るのが怖い」のだと

勅使河原/ペトルーシュカは
孤独と絶望の中で
顔に貼り付いているマスクをむしり取り
じぶんのほんとうの顔をさらけだす

露わなじぶんを見る
その勇気がもてますように

■ホルヘ・ルイス・ボルヘス(堀内研二訳)『夢の本』
 (河出文庫 河出書房新社 2019/2)
■J.L.ボルヘス(野谷文昭訳)『七つの夜』
 岩波文庫 岩波書店 2011/5)

(ボルヘス『夢の本』〜「序」より)

「本書中に加えてある「スペクテーター」紙(一七一一年九月)のエッセイの中で、ジョーゼフ・アディソンは、夢を見ている時、人間の精神は肉体を離れ、それは同時に劇場であり、俳優であり、さらに観客でもあるとの見解を述べている。我々はさらに、精神が己れの見ている物語の作者でもあると付け加えることができる。(・・・)

 アディソンの隠喩を文字通りに読むと、我々は夢がすべての文学ジャンルの中で最も古くて複雑なジャンルをつくり上げているという、危険なほどまでに魅惑的な命題へと導かれる。(・・・)

 読者諸君が再び夢で見るかもしれないような夢の数々を集めたこの本には、夜の夢————これは私が典型的なものと考えるものである————とか昼の夢————これは我々の頭脳の意図的な働きによるものである————さらに出処のはっきりしない夢(・・・)のようなものなどが含まれている。『アエネイス』の第六巻には、『オデュッセイア』からの伝統に従い、夢が我々のもとにやってくる際の神の扉はふたつあると書いてある。ひとつは象牙の扉で、これはいつわりの夢の扉である。もうひとつは角の扉で、これは予言的な夢の扉であると。詩人が選んだ材料から判断するならば、未来に先んじる夢が、眠っている人間の偶発的な創作であるいつわりの夢ほどすばらしいものではないことに、詩人が漠然と気づいていたと言うことはできよう。

 我々が特別の注意を払うにふさわりい夢のタイプがひとつある。悪夢のことだ。これは英語では nightmare、すなわち夜の雌馬という名が与えられており、ヴィクトル・ユゴーに夜の黒馬という隠喩を暗示した言葉であるが、語源学者らによれば、これは夜のつくり話とか寓話に相当する語とのことである。そのドイツ語名詞である Alpは、夢を見る人を圧迫したり恐ろしいイメージを抱かせたりする、小妖精や悪夢を意味する。ギリシャ語のEphialtesという用語も同じような迷信に由来している。

 コールリッジは、目覚めている時にはイメージが感情を抱かせ、これに対し夢の中では感情がイメージを抱かせると書いている。(・・・)

 夜の芸術は昼の芸術の中に入り込んでいった。侵略は幾世紀にもわたり続いた。『神曲』の痛ましいばかりの王国は、おそらく第四の歌は例外であろうが、抑圧された不安感からくる悪夢ではなく、そこには現にむごたらしい出来事の起こっている場所である。夜の教訓は簡単なものではなかった。聖書に出て来る夢は、夢のスタイルをなしていない。それらはあまりに統一的な方法で隠喩のメカニズムを操作している預言である。ケベードの夢は、プリニウスの語っているあのキンメリイ人たちのように、決して夢を見たことのない人の手によりなったもののようだ。そのあとに別の夢がやってくる。夜と昼の影響は相互的なものであろう。ベックフォードとド・クインシー、さらにはヘンリー・ジェイムズとポーは、その根を悪夢に下ろしており、しばしば我々の夜をかき乱す。神話と宗教が同じような起源をもっているということはあり得ないことではない。」

(ボルヘス『夢の本』〜「王の夢/ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(一八七一)」より)

「「今夢を見ていなさる。誰の夢だかわかるかね?
 「誰にもわからないわ」
 「あんたの夢だよ。それで、もし夢を見終わったら、あんたはどうなると思う?」
 「わからないわ」
 「消えちまうのだ。あんたは夢の中の人間。だから、その王様が目を覚ましたら、あんたはろうそくのように消え失せてしまうのさ」

(ボルヘス『夢の本』〜谷崎由依「解説 秩序と渾沌」より)

「本書『夢の本』には、楔形文字で粘土板に刻まれた世界最古の叙事詩ギルガメッシュの物語にはじまり、古今東西の夢についての逸話が収集されている。詩、小説、理論など、そのジャンルは多岐にわたり、ボルヘスの読書領域の広さにいつものことながら目を瞠る。百以上の断片は、目次にも文頭にも署名はなく、出典はそれぞれの末尾に付されているので、読みはじめは誰のものかわからない。すべての書物はただひとりの作者のものである、という「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」のトレーンの思想(それはボルヘスの思想でもあるだろう)が垣間見えるのだが、読んでいると幾つかのモチーフが浮かびあがってくる。

 もっとも顕著なのは、誰かに夢見られている人物、というモチーフだ。」

「自分は誰かの見ている夢にすぎないという夢は、「我々は我々自身の実質で我々の夢を織り上げている」というグルーサックの謂いに従えば、自己同一性の揺らぎや不安をあらわしているろ言えそうである。ボルヘス自身、そうしたものを抱えていたことは、「ボルヘスとわたし」をはじめとする幾つかの作品から窺える。

 また、七十八歳のときにブエノスアイレスで行った講演録『七つの夜』には、「悪夢」という章があり、そこでは鏡と仮面の悪夢をよく見ることが語られている。鏡に映った時分の姿を見ると、仮面をつけている。その仮面を外すのが怖い、なぜなら自分のほんとうの顔を見るのが怖いから、だという。ほかに迷宮の夢もよく見るということで、それはミノタウロスの住むクレタ島の迷宮らしい。」

(ボルヘス『七つの夜』〜「第二夜 悪夢」より)

「悪夢について、様々な悪夢について具体的に話してみましょう。私のはいつでも同じです。つまり私が見る悪夢は二つで、それが混じり合うこともある。私は迷宮の悪夢を見ます。それは部分的には、小さいころフランスの本で見た版画のせいなのです。その版画には世界の七不思議が描かれており、その中にクレタの迷宮がありました。(・・・)

 もうひとつは鏡の悪夢です。もっとも二つの夢は異なるものではありません、というおも向き合う二つの鏡があれば十分に迷宮が作れるからです。ベルグラーノ地区にあるドラ・デ・アルベアルの家で、円形の部屋を見たのを思い出します。壁や扉が鏡になっているので、その部屋に入った人間は、本当に無限の迷宮の中心にいることになるのです。

 私はいつでも迷宮か鏡の夢を見ます。鏡の夢には、これも夜、私を怖がらせるのですが、別の幻影が現れるのです。それは仮面の妄想です。私は常に仮面に恐怖を抱いていました。子供時代、誰かが仮面を被るとすれば、その人間は何か恐ろしいことを隠しているのだと思っていたことは確かです。時折、(これは一番恐ろしい悪夢なのであうけれど)自分が鏡に映っているのを見るのですが、映っているのは仮面を被った私なのです。私は仮面をはずすのが怖い、なぜなら自分の本当の顔を見るのが怖いから、ひどい顔を想像してしまうからです。」

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