国語の授業が辛くなった話。

 最近、文学国語という授業で坂口安吾の「文学のふるさと」と題された批評文を読んでいた。僕は、文学が(あまり詳しくないにせよ)好きでこの文章も、面白いこと言ってるなと思いながら授業を受けていた。詳細は省くが、多分に共感できる部分があったし、また新しい考えも知ることができたため、今日の授業までは比較的楽しく話を聴いて、自分なりに解釈してみたり、今まで見てきた文学に当てはまるところとか、そういうことを考えながら五十分間を過ごしていた。今回は文章ももう終わりに近く、次の授業ではどれをやるんだろうとか、文学批評も意外に面白いなとか、そんな呑気なことを考えていた。
 生きている限りどこかで絶対に感じてしまう孤独(たとえば、僕たちは自分の食べたものの味ですら誰かと共有し得ないこと)の話とか、生きているとたびたび(人によっては頻繁に)降りかかってくる理不尽なむごさの話を、「一体どれだけの人がこう感じるんだろうか。少なくとも僕は何回か感じたことがあるな」と考えながら聴いていると、担任であり国語担当の先生がクラスに質問を投げかけた。
 



Q.「救いがないこと自体が救いであります。」とはどういう意味か。(「この孤独」というのは「我々の現身」と対応して、孤独な精神とか、そういうものだ。)
 この質問は教室にいた他の人々にとってどう聞こえたのだろうか。少なくとも僕はすぐには意味が分からず、先生から与えられた「隣の人と話し合う」時間に、「よく分からないけど、いつか救いがあると思いながら生きていると、救われないことが苦しくなってしまうけど、救いがないことを知っていながら生きていれば、諦めもついて理不尽なことにいちいち苦しまずに済むとか、そういうことだと思う」と、なんだかとんちんかんなことを喋った。相手は「そういうことなのかな、あんま理解できなかった」と言った。正直僕もあまり理解していなかった。自分の意見もよく分からなかった。いや、意外と理解しかかっていたのかもしれない。それなのにその答えを避けてしまう無意識も存在していたのかもしれない。
 話し合いの後に、先生は「どうかなこの部分。小説家が書いてるってのもあってすごく抽象的になってるんだけど、誰か分かる人いますか?」と言った。ざわざわ話していた人たちの声も少し小さくなって、ぽつりぽつりと聞こえる程度になっても、誰も手を挙げる人はなかった。僕は自分の意見に自信を持っていなかったけれど、静寂に耐えられるほど強くもなく、控えめな挙手をした。それはすぐに先生の目に留まり僕は発言の機会を与えられた。僕は先ほどの意見を言ったが、先生の反応は良くない。ああ、なにかズレた意見を言ってしまったなと思っていると、先生の方でも
「確かにそういう見方もあるにはあるんだけど、もう少し違った見方がいるかな」と歯切れ悪く言った。
「どう?他の意見ある人、誰かいない?」と先生が訊いても、手を挙げる者はなかった。僕は違ったことを言ってしまった恥ずかしさとか悔しさとかから、言い訳でもするように教科書を読んでいた。果たして、ある一文が目についた。
「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」
 これかもしれないと思った。
 衝撃を受けた。
 こんなことって、いいんだろうかと思った。
 先生はまたも、隣の人と話す時間を作った。僕は隣の人に何か言うことができず、ボソボソと良く分からないことを言って、話すのはやめた。だんだんみんなの声がなくなって、静かになった。
「じゃあ話し合ったこと発表してください。〇〇」
 僕の二つ後ろの人が当たった。その人がなんといったのかよく分からなかった。僕が言ったとんちんかんと似たようなことを言った気がする。
「あ〜さっきのと似てる感じだね。そう言う感じじゃなくて、なんというかここに書いてる救いって何を指してるか、って言うところを考えて欲しいかな、じゃあ次△△」
 そこで当てられたのは僕の後ろの人だった。お願いだから、答えを言ってくれと思った。それでも聞こえてくるのはとんちんかん。次はやはり僕だった。
「深慟分かった?」
 とんちんかんの僕に、また発言権がやってきた。途端に身体中が冷えて、全身が粟だった。わかってしまった事を隠して逃げることはできなかった。いつもならもっと簡単に出てくる、たった四文字、それがどれだけ口を動かしても出てこなかった。幸い、マスクのおかげで隠れていたが、口をぱくぱくさせる姿は滑稽に違いなかった。
 みんなの視線が集まるのを感じた。苦しかった。きっとみんなわかっている。わざと避けているんだ。忌避されるべきものだから。僕は苦しくて仕方なかった。拷問だと思った。
 きっと本当は一分も経っていない。しかし僕には五分にも十分にも感じられた。やっとの思いで絞り出した言葉は至って単純で、誰でも知っている言葉だった。
「死ぬこと、ですか?」
 言ってしまった。認めてしまった。死ぬことこそが救いだという言葉に納得してしまった。しばらく、普通に呼吸することができなかった。変な汗が出た。授業は続いた。
「そうですね。坂口安吾はモラルがないことというのを〜」
 「死ぬ」なんて、本当の意味で使ったことなんてほとんどなかった、それも大勢の前で言うなんて。苦しかった。普段から感じている孤独感や無力感と筆者の言う「絶対の孤独」に対する解説は同じ意味を持っていた。僕がそこから救われるには死ぬ以外ないのだと、自分で結論を出してしまったことに対して、絶望感でいっぱいだった。先生の解説が深々と僕を抉った。この先生の授業が、いや、今まで、授業でここまで苦しいことがあっただろうか。
 長々とした説明が終わると先生は「とまあ坂口安吾はこう言っているわけですが、先生的には人間は分かり合えると思っているし、何より批評文なので、何か大きなこと、突飛なことでも書かないと売れないわけですね、だからここまで極端というか」という感じのことを言った僕にはそれが、空虚な慰めの言葉にしか聞こえなかった。苦しかった。この文章を読んで苦しくなるという感覚すら、誰にもわかってはもらえない。
 別にオチなんてないです。書くのも辛くなってきたのでやめます。長々としょーもないことばっか書いてすんません。次からはまともにします。正直、あの瞬間に飛び降りでもして死んでおけばよかった。全部、意味がない。寝ます。

一応載せておきます。
青空文庫
坂口安吾-文学のふるさと
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

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