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哲学のノートから(宗教と哲学、ハイデガーの存在論)


哲学と宗教の関係


西洋思想史において、キリスト教とギリシア哲学の二つの柱は不即不離の関係にある。しかし、だからといって宗教と哲学の親和性が必ずしも高いわけではない。
事実、キリスト教の教義はさまざまな非合理的・超越的な前提を置いている。例えば、三位一体とか、キリストの受肉とか、身体の復活とか、聖餐における血肉への変化などである。パウロがアテネでの宣教で嘲笑されたように、基本的な論理法則をベースとした理性的な思考から見れば、信仰に基づく教義は、無意味に煩雑でナンセンスな矛盾の塊にすぎない。トルストイもまた、「懺悔」の中で、そのような教義を理解するのに苦労をしたと述べている。
他方、哲学の方法論は言語を用いた論理であり、論証の体系化である。そして、そもそも論理とは、時間や空間のように先天的に明らかなものもあれば、世界に対する経験則的(たとえば、ヒトの本能や欲求に基づく、エサを食べなければ死ぬから、まず食べなければならないという点から出発した、狩猟や農耕や牧畜など、すべての生活の原理)なものもある。
そして、哲学の特徴は、伝統を学ぶが、伝統に囚われることなく、ゼロベースで思考するという点にある。いわば、ビジネスで例えれば、哲学は起業家の発想に親和性が強い。したがって、信仰の教義が基本的に不動の前提であるのに対して、哲学はそれらをも疑いの対象とする。哲学の立場からすれば、そのように論証を重ねることで、理性の尊敬を図ることこそが、信仰にとってもメリットがあるということになる。しかし、必ずしも既存の宗教がそのような独立独歩の態度を好意的に見るとは限らない。
結論を言えば、宗教の教義は、内部に矛盾や分裂をはらんだ生産的な仮説である。あるいは理性の働きにたいする補助線である。そして、それらは決して、現実全体にたいする網羅的な正解ではない。
理性的に考えれば、三つのものが一つであることは、A=Aという同一律の原則に反する以上、ナンセンスの極みであろう。しかし、三位一体を大前提に置くと、生の現実が(その複雑性を強引にそぎ落とさないままで)生産的に説明できる。だからこそ、三位一体は仮説であり、かつ意味のある教義として受け継がれてきたのである。
そして、宗教がその仮説性を忘れ、固定化した正解と化したとき、宗教的な不寛容は発生する。それは、本尊とする神の数が唯一か、複数かといった問題とは、さしあたり無関係なのである。

ハイデガーにおける存在論


考察するべき哲学の主題の中心に据えられるべきであるのは、今も昔も存在論である。「存在とは何か?なぜ無があるのではないのか?」という問いこそが、ありとあらゆる学問、すなわち理性的な論証の連なりの王座にある。実際、これこそがパルメニデスやハイデガーの根本的な問いであった。
もちろん、この問いは身近である反面、きわめて抽象的かつ空漠としている。そして、無から存在を論証した者はいまだかつて一人もない。神の理性を持つ者でないかぎり、無から存在は創造できないからである。
したがって。既に存在している学説から、私たちは存在論的な論証の方法を学ぶのである。しかし、だからといって哲学は、単なる客観的な知識の蓄積に還元されるものではない。
仮に還元されるものだとすれば、検索エンジンや人工知能そのものが、時空を超えて、主体的に哲学することになってしまうであろう。いかに答えを厳密に弾き出すことが機械に可能であったとしても、機械は実存することもなければ、死に直面することもない。要するに、機械はいかに精巧に作られていようとも、原理的に「意識の自覚」を持たないか、あるいは、その自覚を確かめるすべを持たないのである。
存在の自覚、それこそが人間の条件なのである。いかなる堅牢な論証の連関といえども、その土台には存在そのものに対する驚きがあり、神秘さの自覚がある。存在論のそもそもの目的意識は、そのような柔和な自覚を復活させることにある。この純粋な体験への還元がなければ、いかに厳密な論理を学んでも、擬似問題に惑わされ、本質的な理解に達しないのである。
そもそも、数学も自然科学も「存在するもの」の学であり、「存在しないもの=無」の学ではない。「1」も、ベクトルも、宇宙もヒトも、存在する。これらの共通項を抽出することで、哲学は多領域横断的に、諸々の学問を基礎づけるのである。

ハイデガーは、「現存在は、存在論的に殊別されている」と述べている。要するに、「この私」は、単なる一般的・客観的な概念にとどまるものではなく、存在が存在そのものに関わっていることにより、ある特別な意味合いを持っているということである。
むろん「この私」という言葉も、「この」という特別な指示を表すことはできない。なぜなら、言語はつねに、世界を客観的かつ伝達可能な図式に収める機能を持つからである。
したがって、無理に言語化するならば、『この「この私」』の『この』という新しい記号を導入するほかなく、以下同様にして、数限りない入れ子構造となるだろう。
要するに、「真の私」には、概念的な余剰があるということである。それが「存在論的な殊別」の意味である。そして、この殊別性は、先に述べた生産的な仮説の一種である。つまり、現存在は、内部に矛盾をはらむ前提をあえて置くことにより、生の忠実な描写たりえているのである。
これが、「存在と時間」の隠れた宗教的背景であり、いわば「教義」である。この「殊別」の真の意味に、神への探求の自覚が宿るのである。

そもそも、哲学の体系は、教義と論理(論証)に分解される。
論理や論証は、討議によって合理的に地ならしが可能である。しかし、教義の部分は、仮説的な飛躍を含むため、何人にも共通に理解されるわけではない。
いわば、富士山の地理は国交省の地図に掲載されている。しかし、富士山を登ったときの感想は、一律に論じられない。もとより、山登りにともなう神秘や畏敬の念は共通である。しかし、その表現様式は人それぞれであるのと同じである。それが主客の弾力的な関係性であって、そこには何の分裂もないのである。

そもそも、どのような存在者の分析が課題かといえば、その存在において、みずからに関わり合い、ゆだねられているような現存在についてである。
ハイデガーによれば、このような現存在による存在への問いには、解釈学的な循環がある。つまり、(たとえ漠然とした形でも)先行的な了解があるからこそ、「存在とはなにか?」を改めて問える。つまり、問いの出発点と終着点が同じ一つのことであるという構図である。これは論点先取ではなく、このような循環のプロセスをたどることで、認識は深まっていくのである。そして、現存在は、そのつど私の存在でもある。なぜなら、改めて問うことがなければ、闇の中に溶けてしまい、「私」でも「存在」でもなくなってしまうからである。問いを問うとき、私は存在するが、問うていないとき、私は存在していない。この命題はデカルトの疑いとコギトに相当する。
現存在は、単なる一元的な概念ではない。問うものと問われるものへと二つへと分かれる。つまり、〈一〉が〈二〉になる。そして、〈多〉になるのである。しかし、有機的な〈一〉は、背景へと退くが、あくまでも失われるわけではないのである。



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