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母と歩けば。

実家を出て二十数年が経つ。
気がつけば、家族で暮らした年月よりも一人暮らし歴のほうが長くなっている。
私もきょうだいも巣立ち、両親は六十代後半で地方へ移住し、今はそれぞれがそれぞれの場所で生きている。

そんな家族も、毎年お盆とお正月には全員で集まる。
両親の家に集合して、たくさんしゃべって、さんざん食べて飲んで、賑やかに過ごす数日間。その楽しい時間の中で私がいつも思うのは、「もう二度と、家族みんなで住むことはないんだな」ということ。
そりゃそうだ、きょうだいにはパートナーがいるし、両親の住むこの家は夫婦二人用のサイズだし、私の拠点だって簡単には動かせない。昔のようにみんなで住むなんて、不可能であり得ない。
当たり前すぎて普段は意識もしないけれど、同じ屋根の下で何日か寝起きしていると、その当たり前すぎる事実がふっと胸をよぎるのだ。
そこに悲しいとかさみしいとかいった感情はあまりなくて、ただ改めて、「みんなで一緒に暮らすことはない」という事実に思い至るというだけなのだが。

もちろん、親と同居する可能性はこの先もある。見守りや介護が必要となれば、また一緒に暮らす日がくるかもしれない。
ただもしそうなったとしても、昔のように家族全員でという形にはならないはずだし、親と子の役割も当時とは大きく変わってしまっている。そしてそこでは、ウキウキする楽しさや未来への希望ではなく、戸惑いや悩み、しんどさなんかと向き合うことになるのだろう。

七年目に入った父と母の田舎暮らしが、この先もできるだけ長く続くことを家族みんなが望んでいる。そのために私にできることは、なんでもしたい。これは偽りのない本音だ。
でもその一方で、両親になにかあったらここに住んで同居できるかと問われると、私は答えられない。この町にはきれいな海も山も広い空もあるけれど、でもそれだけでは生きていけない、と思ってしまうのだ。

今年のお正月も両親の家で過ごした。
よく晴れた午後、母親のウォーキングにつきあい、小一時間ほど歩いた。空気は冷たいが、空が高くて気持ちいい。母の歩くスピードは思っていたよりも速く、姿勢良くスッスと進んでいく。まだまだ元気だなと安心するが、背中はだいぶ小さくなったようにも見える。
漁港に着いたところで少し休憩。海に向かい、あたたまってきた体に磯の風を大きく吸いこむ。おこぼれの魚を狙っているのか、釣り人の頭上にはとんびが、足元には野良猫が様子をうかがっていた。

帰り道は、おしゃべりしながらゆっくり歩いた。近所の人が年末に体調を崩したそうで、父も母もいっそう健康には気をつけようと話したそうだ。
そして、「いつまで元気でいられるかわからないけど」と前置きしてから、母が言った。

「私たちの老後がどうなったとしても、子どもたちにはそれぞれの人生を変えずにいてほしいと思ってる。親のことで時間を奪ったり、何かを犠牲にさせたりしたくない。親の世話を面倒だな、億劫だなと一瞬でも思ってしまうあの感情も、それを思ったことに対しての罪悪感も、味わわせたくないの」
「だから、もし私たちに何かあっても、割り切って考えていいからね。あなたはあなたの人生を最優先にしてね。これは心からの本当の気持ちだから」

どんな顔をすればいいのか、なんて返事をすればいいのか、私はわからなくて、前を向いたまま歩いた。横並びで顔が見えない時でよかったと思った。
母が言うとおり、本当に心からそう思っているのだろう。それはわかる。でも、「わかった」と返すのも違う気がした。

私の人生は、母からもらったものだ。その人の人生を自分と切り離して考えろと言われても無理に決まっている。実際に介護問題に直面したら綺麗事だけじゃ済まないことはわかっているつもりだが、でも今は、母の言葉をすんなり受け止められない。

私だって、私なりに両親のことを心配し、大切に思っている。もっと頼ってほしいし、いざという時はまかせてほしい。
私がそう思っていることは母もわかっているのだろう。そして、その気持ちを持ち続けることがとても難しいということも。

途中の無人販売所でみかんを買った。ここのは甘くておいしいのよと、母はご機嫌だ。一袋100円でみかんが買えてしまうこの町で両親がいつまで元気で暮らせるのか、私たち家族の形がこの先どう変わっていくのか、今はわからない。こうして母と並んで歩ける時間も、あとどれくらいあるのだろう。
そう考えると、さっきの母の言葉を聞けてよかったと思った。すぐには受け止められなくても、今の母の気持ちを聞いておけてよかった。すぐには受け止められない言葉だったから、しばらくの間はそっと、あずかっておくことにしようと決めた。

もしかしたら、私にあんな話をしたこと自体を、母が忘れてしまう時が来るかもしれない。
でも私は絶対に覚えていようと思う。
「あなたの人生を大切にして」と言ってくれた母の言葉を。
ふたりで並んで見た海と空の青さを。
どんな時も、なによりも、子どものことを想ってくれている母であったことを。

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