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時々、誰も自分のことを知らない場所で朝まで踊り明かしたくなる時がある。
昨夜もそんな気分になったが、なんだか荒れた飲み方をしてしまいそうな予感がして、次の朝ジムに行きたかったこともあり止めておいた。
とはいえ、誰も俺を気にしない、そんな場所で思いのままに身体を動かしたくなるのは、もう十年以上染みついた欲求だ。

大阪に住んでいたハタチの頃、初めてレゲエのイベントに足を運んだ。
アメ村の中でも大規模な箱で行われたデイイベント。
全くどんな雰囲気なのか、どんな格好で行けばいいのか、どういう立ち振る舞いをすればいいのか。
全てが分からないまま、長年の憧れだけを原動力に、せめて間に合わせで買ったキャップを被って足を運んだ。

待っていたのは何台も積み上げられた、巨大なスピーカーシステムが放つ轟音。
目の前で和太鼓を聴いているように腹の底までズシンズシンと響く重低音。
タバコとギャルの香水の匂いが漂う、やけにギラギラした空間。

ステージではマイクを持ったMCが、「俺らのヤバいダブ聴きに来たやつは手を上げろー!!」と客を煽り立てる。
殺気に似た空気すら纏うこの空間は、熊本の田舎から出てきて間もない小僧を圧倒するには十分だった。
ダブとは「ダブ・プレート」の略で、市場には出回らない一点ものの楽曲のこと。それを聴くためには基本的に、ダブ・プレートを所持するセレクター[他ジャンルでいうDJ]のプレイを直接見なければならず、彼らのオリジナリティや集客力に直結するため、セレクターは多額の活動費を割いてダブの制作を競い合う。)

でも、この殺気はどこか「殺伐」という言葉とは異質のものだった。
ステージで語られるのは一貫して「リスペクト&マナー」
狭い空間で肩がぶつかれば、「龍が如く」のように厳つい客でも笑顔で片手を「すみません」の形にしてくれる。
嵐と山火事が一緒に来たかのような混沌の中にあって、そこには確かに他者への思いやりや理性が両立している。

そんな微妙なバランスで音の渦の中を泳がせてくれるレゲエの「現場」の世界に、俺は虜になってしまった。

ちなみにこの時の映像がまだYoutubeに上がっている。
音割れがひどいのが、却って「現場」の破天荒さを示してくれているかもしれない。

「現場」に何年も足を運ぶにつれ、自分ならではの楽しみ方もわかってきた。
行きつけの「ダンス」ができ、キャップではなくハットを被る、ジャンパーではなくジャケットを羽織ってみるというような、自分なりのスタイルの出し方もできるようになった。
初めは音への乗り方もわからず直立不動だったのが、音とコミュニケーションをとりながら、自分にとって心地のいい身体の動かし方が身についてきた。
気づいたらしばしば、「ダンサーさんですか?」なんて聞かれることも増えた。

特に誰かに何かを習うというようなこともなく、これらは全て「現場」に通ううちに自然と自分の中で変化していった。
カッコつけた言い方をすれば、「音と対話しながら身についていった」という言い方が、一番自分の実感に近い。
音を「乗りこなす」ということを少しずつ自分の五感で学んでいったのだ。

気づけばその「現場」の様相を書き表すことは自分の研究テーマ、ライフワークとなっていた。
興味の矛先になっていたのは、歴史や楽曲といった知識的トピックというよりは、「なぜ日本人がレゲエで踊るの?」という、もっと根源に迫る問いであり、今もその関心は変わっていない。

研究をする中で、最も自分の見聞とばっちりハマる言葉を見つけた。
それが、メディア研究者・ジュリアン・アンリーク(エンリケス)の「Sonic Embodiment 音の身体」、そして、民族音楽学者・山田陽一の「響きのきずな」という言葉だ。

ダンスホール・レゲエのサウンド・システムは、多くの場合積み上げ型の巨大なスピーカー・システムを持つ。巨大なそれらから放たれた重低音は、オーディエンスに音の震えとして受け止められ、セレクターの高度に熟達した技によって何倍にも増幅される。これをさらに受け止めて踊り狂う聴衆の身体について、アンリークは「音の身体 Sonic Embodiment」[Henriques 2003: 467]と呼んでいる。また、山田はそれに付け加える形で、サウンド・システムから放たれる音の響きによってオーディエンスの身体が繋がる様子を「共振 co-vibration」[山田 2017: 248]と呼び、そのつながりによって生まれる身体の結びつきを「響きのきずな」[山田 2017: 248]と呼んだ。

池田太陽「『バイブス』でつながる『Blackanese』たち〜日本におけるダンスホール・レゲエを巡る身体と言説」(2018)p.7より引用

サウンドシステムから放たれる爆音は、その場に参加している人間の年齢も、世代も、職業も、年収も、思想信条も、あるいは意思も、一切のラベルをその音圧で引き剥がしてしまう。
そこにはただ、「音」と「身体」が「共振」しているだけだ。

だからと言って完全なるカオスというわけではなく、それぞれの身体は一つの「音」が優越する空間において、強固に結びついている。
だからこそ、「リスペクト&マナー」は成立する。
社会的上層に立つ人間が、度々国家的大事業において持ち出す「絆」ではなく、それぞれが今ここに発せられる音の下で、対等に「きずな」を結んでいるのだ。

それを示すように、レゲエの「現場」に通う人間は往々にして非常に仲間意識が強い。
単なる「パリピ」とも「飲み友」とは次元の違う、強固でありつつもバラバラな個を最大限尊重する結びつき。
仲間と一緒に楽しみたい夜もあれば、一人でとことん音と対峙したい日もある。そして、それを否定しない。
それが「One Love, One Heart, One Blood」のありようなのかもしれない。


「現場」を出るとあまりの音圧に耳が疲れて、耳元がしばらく「キーン」と鳴り続けるのがわかる。
日頃のストレスの毒抜きのようで、飛び込みの後の耳抜きのようでもある。
ああそうだ、試合で全力で泳ぎ切った、あの時の感覚とよく似てる…。


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