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怒りは、忘れたほうがいいのか?

 私は、執念深い。怒りを覚えた出来事は、そう簡単に忘れない。
 怒りは、早く解消したほうが良いと言われれば、私個人の心身の健康のためにはそうなのだが、自分の大事な部分に関わる怒りをそう簡単に忘れてやるものかと思ってしまう。

 私の怒りは、多くの場合、排他的な行いを見たり、聞いたり、受けたりした場合に起こる。

 たとえば、その昔、私は、とある文芸サークルに所属していたのだが、ある出来事をきっかけに失望して辞めてしまった。
 部員が小説を書いてきて、全員で合評し、作家の先生が講評してくれるというサークルだった。運営は、部員が持ち回りでやる。合評講評以外にも、勉強会や文学散歩など、楽しい活動がいろいろあって、小説好きの集まりなので、話は弾むし、楽しい思い出も沢山ある。
 が、オープンな場なので、いろんな方がいる。なので、いつも和気あいあいというわけにはいかなかった。
 あるとき、会の運営に関して熱心に働いていたAさんを辞めさせようという動きが起こった。私は、自分が運営委員を務める際も、会報に自分の小説を載せる際も、Aさんにいろいろアドバイスを頂き、とてもお世話になっていた。Aさんが、運営において非常に多くの仕事をしたことは明らかだったし、Aさんを頼りにしていた会長的立場の方まで手のひらを返したように辞めさせようとしたので、私は抗議した。でも結局、Aさんは辞めるしかなくなった。
 中でも熱心にAさんを攻撃したのが、意外にも、小説の中では”優しさ”や”思いやり”を描いているBさんだった。私はBさんの小説が好きだったし、信頼していたので、二重にショックを受けた。私は、なんとか理解してもらおうと思ったが、話にならなかった。Bさんの中では、Aさんが完全に悪かったのだ。

 これは私の考えだが、結局のところ、実際に何か悪い行いがあったのではなく、Aさんの言動が少しばかり厳しかったからだと思っている。Aさんは、文章を書くことに信念をもっており、会報に載せる私の小説を校正する際も、はっきりとまずい点はまずいと指摘してくれた。それが、運営においてもそうだったので、一部の人の悪感情を誘うことになったのだと思っている。
 優しいと思っていたBさんが全力で人を排除したこの出来事に、私は本当に驚いた。どんな人も排除するのだ、という記憶として、私の中に深く刻まれている。

 怒りの話に戻る。
 私の怒りは、自分と価値観の違う他者を排除することに対して沸き起こる。だから、私は絶対にそうした動きに加担しないと心に決めている。(もちろん、相手が暴力に訴える場合は、話は別だ。物理的暴力は、いかなる場合も許されない。)
 しかし、その決意だけでは、盤石の備えとは言えないことも理解してもいる。優しかった(と私は思っていた)Bさんがそうしたのと同じように、私の中にも、他者を排除する人を排除したいという思いがある。

 Aさんの態度は、人によっては不愉快に感じられる部分もあったかもしれない。でも、それゆえにこじれてしまった事柄について、説明する機会は与えられるべきだったと思う。
 AさんがBさんに与えた不愉快は、Bさんにとって絶対的に”悪”だったとしても、客観的に見て”暴力”とは言えなかったと思う。
 単純に、人への接し方において、Aさんのやり方がBさんに不快だったに過ぎないのではないか。

 このことを、自分事として、私は肝に銘じておく必要がある。
 単に、自分にとって不快というだけではないか、と。
 価値観の違う他者を排除し、YESだけで成り立っている世界に、私は本当に暮らしたいのか、と。
 私が、「あの人は、他人の意見が聞けない」と感じている人であっても、表面に現れている言動だけでは理解し得ない裏の事情があることに、想像力を働かせなければならない、と。

 この話には、後日談がある。
 Bさんとは仲直りすることができなかったが、サークルの会長さんは、後にイベントで会った際、「あのときは、ごめんね」と謝ってくれた。私は会長さんのことも好きだったので嬉しかったし、AさんとBさんとの間で板挟みだったのかな、と、ようやく相手の立場に思い至ることができた。
 私だって、人のことをあれこれ言えた人間ではないのである。相手が態度を和らげなければ、自分は絶対に折れられない。そういう私の態度は、未熟だったと思う。

 もう一つある。
 サークルに長年所属しており、そうした数々のトラブルも経験してきたCさんが、サークルの講師である作家の先生と密かに開催している会に、私を招いてくれた。おかげで、私は尊敬する先生とのご縁を失うことなく、勉強する場を得られた。
 この会は、Cさんに声を変えられない限り入会できない。前述のサークルと違い、完全にオープンな会ではない。言うなれば、Cさんフィルターが働いているので、トラブルになりそうな人は入ってこない。Cさんのおかげで、私は安心して発言し、学ぶことができる。

 Cさんのやり方は、一つの解決法だと思う。
 Cさんは、完全にオープンなサークルにも、自分に近い人だけで小規模に開いている会にも、両方に所属している。自分と遠い人とは適度に距離を置き、近い人とは忌憚なく意見を交わす。場を使い分けているのだと思う。
 いつでも、どこでも、安心して発言できる理想郷は存在しない。自らその基地を生み出し、そこを自分の基盤として外の世界に出ていくしかないのかもしれない。

 あるいは、それ以外の方法でも、理想と現実に折り合いをつけ、誰のことも完全に排除することなく、次々に起こる事件に対処している友人たちが、幸いにも私には何人もいる。
 つい先日、その友人の一人が、とても素敵なことを言っていた。それを、名言としてここにそのまま記したい。

―人と人は分かり合えなくて当たり前で、そこを認識した上でそっから始まる理解というものがあると思うからさ。

 友人の、他人のために労力を惜しまない働き方や、他者を理解しようという器の広さを思うと、自分の狭量さが恥ずかしくなる。
 自分の気持ちに折り合いをつけ、怒りを”対立”のためではなく”理解”のための道具にしていきたい。
 おそらく、ままならない現実に失望する中で、怒りをうまく昇華できなかったために起きたであろう事件の数々を見聞きするにつけ、心底そう思う。怒りを怒りのままにしておいてはいけない。

 と言っても、私は執念深いので、やっぱりそう簡単に怒りを手放しはしない(笑)ちょっとした気分転換や時間の流れに任せ、忘れる気はさらさらない。私は、”排除”(あるいは、それよりはマシかもしれないが、あくまでもマシというだけの”無視”)という手段を選んだ人と同じになりたくない。怒りを怒りのままにせず、自分にできることをやっていく中で、それを昇華していきたい。

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