結局人と人とは分かり合えないんだから。(「綺跡」セルフレビュー)

太陽と申します。

取り立てて長いわけでも、ましてや面白みのある人生を歩んできたわけではないのですが、今まで生きてきてたくさんの人たちに出会ってきました。そういう出会いのひとつひとつは、たとえば単純な楽しい思い出だったり、恋愛のような大きな感情の動きだったり、まったく考えもしなかった新しい価値観だったり、たくさんのものを残します。

しかし、そういう綺麗なものは、出会いが残すものの上澄みにすぎません。奥底には醜くて汚いものがたくさん沈殿しています。そしてそれはふとしたきっかけで、いたずらにかき混ぜられ、全てを台無しにしてしまうこともあるでしょう。

人と人とは他人という強固で絶対に破れない絆で結ばれ、隔たれている存在です。ゆえに決定的な価値観の齟齬は避けられず、それに伴う独りよがりな行為で信頼関係を壊してしまった、あるいは壊されてしまった経験がある人は少なくないと思います。

今回noteにアップしました「綺跡」という作品は、そういう人と人とのすれ違いを、恋愛というイベントを通して向き合ってみるお話です。演劇の台本という形式上、少し読みづらいフォーマットになってしまいましたが、ちょっとだけ我慢していただけると幸いです。

執筆のきっかけ

去年(2019年)の春頃に僕が所属している大学の演劇部で僕が執筆した「沈丁花が枯れたとて」という作品を上演しました。その稽古中に、公演関係者間であるブームが巻き起こっていました。それは、登場人物である堀江辰也と大貫里沙をカップリングするというものです。

もともと、いわゆるオタク気質な部員が大半を占めている弊部。そんな彼らが物語から推しカプ(用法が正しいかはわからない)を見出すのは自然の摂理です。そして、物語の登場人物からドラマを発展させられるのは(これは役者の魅力が要因であると思いますが)作家冥利に尽きるものです。そこから妄想を膨らませてできたのがこの「綺跡」という作品でした。

本来の予定では、同時期に執筆していた人類の三大タブー(殺人、食人、近親相姦)をコンプリートした作品(実際は殺人と近親相姦だけでコンプリートには至らず)と同時に部内で発表して情緒をめちゃくちゃにかき混ぜてやろうという魂胆でしたが、綺跡の方が筆が乗らず断念。その後に、完全な身内向けの催しに向けて執筆をお願いされ、急遽完成させ現在に至るわけです。

「沈丁花が枯れたとて」からの繋がりについて

「沈丁花が枯れたとて」も本作同様、人と人との分かり合えなさを描いた作品です。最後は世界が変わるしか無い、という後ろ向きな結末を迎えた前作。それに比べると本作はわりと前向きな方向に落とし所を見出したのではないかな、自分では思うのですがどうでしょうか。

結局人と人とは分かり合えないんだから、そういう分かり合えなさを受容して生きて行こうぜ。ということを、この作品は、というか菫ちゃんは言いたいんだと思います。事なかれ主義だと言われればそれまでですが、自分の価値観を他人に強要するような暴力性を彼らには持って欲しくなかった、というのが作者としての個人的な気持ちですね。

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