【ひとはどこまで他者を傷つけていいのか:本論Part1】

Ⅱ.本論

〈結論〉

長い序論に逆らって/序論が長いが故に、結論を先に述べよう。結論は二つだ。

① 決して人を傷つけてはならない。決してだ。

なぜなら人を損なうことであなたは自らを損なう。自らの平穏な暮らしや愛する人の安心安全と無事を望むのなら、守ると決めたもののために、あなたは他者を傷つけてはならない。あなたが戦うのはあなただけだ。誰も損なわないように、あなたは戦うのだ。


② あなたは他者を傷つけていい。どこまでも深く烈しく。

むろん、損なってはならないが、もし相手を信頼しているのなら、他者を傷つけることを恐れる必要はない。あなたは他者のために他者と戦い争い、数え切れない傷を負わせ、血を、涙を流してもいい。あるいは死すらも、もたらしても構わない。



〈主体の問題〉

この相反した結論は、主体の違いに由来する。「だれが傷つけることになるのか」。これが問題だ。主体を無視した物言いは、画一的で黴の生えた道徳や倫理になるだろう。あるいは実情に反した法律になるだろう(喩えるなら、前時代的で廃品回収に出すしかない無用の置物だ)。なぜ主体を問わねば無価値となるのかと言えば、現状われわれは実際に常に今この瞬間も他者を傷つけていて(切れ味の鋭い言葉)、だからこそ規範として「傷つけてはならない」と口々に言い合い(社会性の欠如した物言いに対する反感)、そして傷つけることを恐れるが故に、他者との関わりを避けるようになっていて(人間関係のリセマラが可能な繋がり過ぎた現代社会)、同時に傷に対する耐性を失い(商品のように取引される「わたしは傷ついた、みんな助けて!」という不貞不貞しい弱さ)、ますます脆弱な存在と化しつつあるからだ。この現代社会において——法律の網の目がきめ細やかに整備され、インターネットを介してインナーネット(内的規範/思考)の綿密な監視を実現した時代において——不用意な一般化は誤った結論を生み出す、ちょうど平等選挙を是とする民主主義が死に体にあるみたいに(主体への意識の欠如が全体主義的ディストピアの必要条件だ)。こういう今だからこそ、「どのような人が」行ったのかをしっかりと考えよう。結局のところ、主体に対する評価をすることなしには、行為の本質など測りようがない。フー・ダニット? 推理小説を書く際、トリックよりも動機を考える方が難しいという。それはきっと、通常は許されない行為である場合は特に、われわれはそこ(犯行)へ至ることとなる納得のいく経緯/理由を求めるのだ。つまり、犯人——犯行を行う主体——がどのようなものを抱えているか次第で、評価が異なるのだ——どのような過去の/どのような思想の/どのような人格の人間がしたのか(卑近な例を言えば、安倍晋三を殺害した山上は一部で崇拝される一方、岸田文雄の暗殺未遂犯の木村は落伍者や異常者として非難されるのは、やはりメディアの作り上げた内在する過去・思想・人格が異なるが故だろう)。

ぼくはこういう次第で、前時代的な依怙贔屓野郎と見なされようと、ダブスタクソ親父と野次られようと、行為自体だけでなく、行為者、つまり主体を併せて見るという姿勢を取ろうと思っている。


〈1分でできる固有判断基準有無診断!——きみは自らの判断基準を有しているかな?〉

「決して人を傷つけてはならない」人とは誰か。それは、自らの判断基準を有していない人だ。あるいは自らの基準に基づいて責任ある判断を下そうとは思えない人だ。逆に「あなたは他者を傷つけていい」のは、自らの判断基準を有している人だ。あるいは行動規範を確立したいと望むきみだ。

では、「判断基準を有している/いない」とはどのような判断基準に基づいているのかと言えば、具体的に以下の二つの質問が適切に思う。


[Question]

⑴ 真夜中、通りに設けられた赤信号を守りますか?(恐らく車は来ません)

⑵ なぜ人を殺してはいけないのかを教えてください。(子供向けレベルの説明でも構いません)


[Answer]

——「渡らない」つまり「赤信号は絶対に守る人」は自らの判断基準を「有していません」。

信号という社会的な規則はあなたの移動したいという意志を妨害しています。しかし、あなたは様々な理由の元に——自分より年少の人間に真似させたくない/後ろめたい(自分の良心に後ろ指をさされたくない)/規則は守るもの——自分の「渡らない」という行為を正当化していますが、そこには一次発生的な前向きなものがありません。規則だから守る、これは「規則」という否定的(「こうしたい/ああしたい」という意志や欲望に反する/を制御する)な存在を肯定するという、つまりは『疚しい良心』に由来しています。あなたは『自らの』判断基準を有していません。無論判断は下しています。ですがその判断は、単なる「外部基準の適用」に過ぎません。

——「渡る」人も残念ながら同様に多くは判断基準を有していません(どちらも外れ!?)。何も考えずに道路に身を乗り出しているのなら、それは思考の放棄、つまり判断の欠落です。判断が欠落していたら、当然判断基準など培われようはありません。そう、そうなのです、判断基準は培われるものなのです。ゆえに、判断基準がある者とは「一旦立ち止まり、左右を遠く見ても車は認められず、耳を澄ませど街は全き眠りに就いており、唐突に路地から現れる車はないようだと把握した上で、道路に身を乗り出す」人です(「恐らく車はありません」という問題文に文句をつけても構いませんが、それこそ他者依存ではないですか。自分の安全は自分で確認しましょう)。自らの安全を自らの定めた基準で維持しようとする、これこそが「自らの」判断基準を有した人間です。社会やシステムは行動の効率化・適切化を実現しますが、代償として社会/システムへの依存を要求します。そしてこれは転じて判断基準のアウトソースに繋がります。むろん、信号機は基本的に有益ではありますが、深夜の交通量が僅かな状況では、無駄を生じさせます。だからこそ無駄を省こうとする際はシステムを逸脱することとなるわけですが、システムの逸脱には当然危険が伴います。ゆえに、「主体的な配慮」が不可欠です。そして「主体的な配慮を備えた個人」こそが、「固有の」判断基準を有していると言えるのです。


——これに関してはずっと単純です。「なにか理由のようなものが言えた」り、「なんらかの理屈を付けようとした」のなら、あなたは判断基準を「有していません」。人はなぜ人を殺してはいけないのかに理由などありません。親や兄弟、友人や恋人がなんて言おうと、あるいは法律や経典にどう書いてあろうと、はたまた神がどうにかして何か宣おうと、人は人を殺すことができます、殺すことがあり得ます。むろん殺人は責任が生じます、だからといってこれは理由にはなりません(責任が生じるから行わない、という選択をするのならわれわれは今すぐ朽ちるべきです)。殺人を否定しようとなにか言えることが仮にあるとすれば、「人が死んでしまうから、人を殺してはいけない」といった小泉構文くらいなものです。ゆえに、あなたが進次郎でないのなら、「わからない」といった旨の煮え切らない返答をするか、首を傾げて無言になるかのいずれかでしょう。これは本来は答えのない問いです、人が死ぬから人を殺してはならないのです。このトートロジーを除けば、その他の理由は単なる「外部基準の適用」に過ぎません。



〈結論リプライズ、そして記述は延々と続く〉

① あなたが自らの判断基準を有していない、もしくは自らの基準に基づいて責任ある判断を下そうとは思えないのなら、決して人を傷つけてはならない。決して。人を損なうことであなたは自らを損なうだろう。自らの平穏な暮らしや愛する人との幸福な日々を望むのなら、守ると決めた価値ある存在のために、あなたは他者を傷つけてはならない。あなたが戦う相手はあなただ。誰も損なわないよう、あなたは力の限り戦う。


② きみが自らの判断基準を有しているのなら、あるいは行動規範を確立したいと望むのなら、他者を傷つけてもいい。どこまでも深く烈しく、強く愛しくなるほどに。損なわないようにと常に留意しよう。相手を信頼しているのなら、傷つけることを恐れる必要はない。あなたは自分のためでなく、他者のために他者と戦い争い、数え切れない傷を負わせ合い、血を、涙を流し合えばいい。あるいは死すらも、もたらし合えばいい。ぼくらを縛るものはない。ぼくら自身を除いて。構わないよ、全力で打つかっておいでよ。そしてあるいは殺し合おう。ぼくはぼくが生きている限り、全力で立ち向かうから(ここで厨二病が全開で発症! 全快はいつになることやら)。

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