おくり神 序章

「もう決まった?」
「まだよ。え、もう決まったの?」
 急かすように机を小刻みに叩きながら、男は頷く。
「早すぎない?」
「お前が決めるの遅いだけだよ。」
「別にそんなことないと思うけど。ちなみに、何にしたの?」
「明太パスタ。」
 女は呆れたようにため息をつく。
「いっつもそればっかり。メニューなんか大して見てないんだから。」
 男は待ちきれなくなったのか呼び出しチャイムを鳴らす。
「ちょっと、まだ決まってないのに!」
「お前が決めるの待ってたら店が閉まっちゃうだろ。」
 二十四時間営業だから閉まりません、と怒りながら女は再びメニューに目を戻した。
 少しするとあどけない笑顔の可愛らしい女性店員がやってきた。最近入ったばかりなのだろう。胸元の名札の下には研修中と書かれた札が張られている。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「明太パスタとドリンクバーで。お前は?」
「じゃあこのサラダうどんで。あ、あと私もドリンクバーください。」
「かしこまりました。それではご注文を繰り返します。明太パスタとサラダうどん、あとドリンクバーがお二つですね。」
 女性店員はドリンクバーの方を手で示しながら、ご自由にお取りください、と言ってフロアに戻っていった。彼女の後ろ姿を眺めながら男が呟く。
「初々しくて可愛いな。」
「そうね、研修中ってなってたわ。若いっていいわね。」
 女は遠い目をしながらそう答える。
「俺飲み物とってくるわ。何がいい?」
「じゃあオレンジジュースで。」
 男はドリンクバーを取るために席を立ち、女はカバンから取り出したスマートフォンをいじりだした。
 別に何か用事があったわけではない。いわゆる一つの癖のようなものである。
 事件や事故、政治家の収賄疑惑や愚か者としか思えない失言。そして、本当はどうでもいいのにマスコミが吠えることでその火が大きくなる芸能人のスキャンダル。実にろくでもない世の中である。
「はあ。」
 ため息をこぼした女の元に、グラスを二つ持った男が戻ってきた。
「どうした?」
「別に。ただ、ろくでもない世の中だな、って。」
「まあな。」
 男は取ってきたコーラを飲もうとしたところで女に尋ねた。
「あ、ストロー忘れた。取ってくる?」
「別にいいわよ。このまま飲むから。」
「なら俺もこのままでいいや。」
 そうこうしているうちに注文した料理がさっきの可愛らしい店員によって届けられた。
「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか?」
「はい。」
 男は少しデレデレとしながらそう返事した。情けない話だが、男というのは若くて可愛い女性に弱い生き物だ。
「ごゆっくりどうぞ。」
 女性店員の後ろ姿を見ながら男は呟く。
「本当、可愛いなあ。」
「そりゃあよかったですね。」
 女は呆れ顔でそう言った。
「別にあれだぞ。今の可愛いっていうのは……」
 男は言葉に詰まる。
「何よ?」
「だからその……そう、自分の娘を見ているかのような、そういう意味での可愛いだよ。」
「子供はおろか、結婚もしてない身分で何言ってるのよ。別にあなたがあの子のことをどういう意味で可愛いって言ってても私は構わないから。」
「そんなつれないこと言うなよ。」
二人はそんな毒にも薬にもならない会話をしながら食事を始めた。傍から見るとそこにいるのはどこにでもいる普通のカップルである。
メニューをほとんど見ない男と店員が来てもギリギリまでメニューを見続ける女。これがドラマであれば、主人公たちの後ろに座っている男Aと女Aに過ぎない。

 人間には多かれ少なかれ秘密がある。
 なぜ秘密にするのか。それは公言することをはばかられる内容だからだ。
笑われてしまうような恥ずかしい失敗、出来心でしてしまった悪事、およそ面白みのない恋愛譚。
 もちろん、先ほどのどこにでもいそうなあのカップルにも秘密はある。いや、秘密があるからこそ、どこにでもいるといえるのだろう。
 もっと言うと、あのあどけない笑顔の店員にも秘密はある。むしろ、一見すると裏表がないように見える人の方が、意外とすごい秘密を持っていたりするものだ。

 せっかくなのでここで先ほどのカップルの一番の秘密をお教えしよう。
あの二人はカップルのようであって、その実カップルではない。それでは夫婦なのかと思う者もいるかもしれないが、そういう頓智でもない。
 彼らはどこにでもいる平凡なカップル、のふりをした二人組の殺し屋なのだ。関係性としてはそう、ビジネスパートナーになる。
 急に嘘っぽくなってきた、と思う方もいるかもしれない。その気持ちもわからないではない。
殺し屋なんて本当にいるのか、と疑わしく思う者もいるかもしれないが、もし仮にあなたが殺し屋だったとしたら、その正体を誰かに明かすだろうか。依頼主はもちろん、家族にだってその正体は隠しておくはずだ。
つまり、普通の人とは縁がないところで殺し屋は確かに存在するのだ。明日の朝、電車であなたの隣に座るその人が殺し屋かもしれないし、ともすればあなたの愛する家族の中にも、実は殺しを生業とする者が潜んでいるかもしれない。
 結局のところ、人が信じられるのは自分だけなのだ。無論自分だって、本当に自分が思った通りの人間なのか怪しいものだが。

 それでは次にあのあどけない笑顔の店員の秘密を話そう。
 彼女はこの近くの女子高に通う、至って普通の女子高生、とはいかない。さすがにそれでは物語にならないではないか。
実は彼女こそ、ここ最近この近辺で起きている、連続通り魔事件の犯人なのだ。
 まさか、と思うかもしれないが、前述したとおり、裏表がないように見える人の方が、とんでもない秘密を隠し持っているものだ。

ここまで話すと、話がつながったと思う人もいるかもしれない。
 なるほど、あの二人組の殺し屋の次のターゲットがその女子高生なのか、と。残念ながらそうではない。彼女が連続通り魔だということはまだ誰にもばれていないし、それ以外は普通の女子高生と何ら変わりない彼女を殺してほしい、なんて依頼が来るほど、この国もまだいかれてはいない。
 ではもう一歩深読みして、逆にその女子高生が、この二人組を通り魔の次のターゲットに定めたのではないか、と思う人もいるかもしれない。
しかし、残念ながらそれも違う。
そもそも彼女は、夜道で出会った人を急に襲うタイプの通り魔であって、始めから標的を定めているわけではない。そんなことをしたら彼女のポリシーに反する。おかしな話だが、犯罪を犯すものにも、その人間にしかわからないポリシーがあるものなのだ。
何事も早合点は禁物であるということだ。
 それでは何の関係性もないのか、と聞かれれば、さすがにそういうわけでもない。実はこの二人組の殺し屋と連続通り魔の女子高生には、ある共通点がある。
 つまりここからが本題というわけだ。
三人の共通点、それは三人とも賜道教(しどうきょう)の信者であり、「おくり神」に傾倒しているという点だ。

 世界中には様々な宗教があり、神様も数多存在する、とされている。まあ科学的に証明できるわけではないし、確実な歴史があるわけでもないから何が真実かはわからないが。
この国でも、昔から大陸方面から伝わってきた宗教を取り入れるかどうかをめぐって争いが起きたり、特定の宗教を時の権力者が危ぶんで禁じたこともあった。
このように、宗教とはその時その時によって様々に形を変え、人々の間に浸透していったのだ。

現在のこの国では特定の宗教が弾圧されるということはないが、しかし何か特定の宗教を信じているというと、それだけで敬遠されることが多い。それこそ何かの宗教に傾倒していることを秘密にしている人も少なくはないだろう。
年始には初詣に行き、お盆にはお墓参り、秋冬になると、ハロウィンやクリスマスを楽しむ。この国では様々な宗教行事を、ただの季節のイベントとして楽しんでいるのだ。
節操がないという人もいるかもしれないが、私は別段そうは思わないし、まして特定の宗教に傾倒すべきだ、なんて大それたことを言うつもりもない。ただ単に、この国の宗教事情について述べたまでである。
そしてこう結論付けてみた。この国の多くの人々は、宗教を毛嫌いしている、いわば無宗教という宗教の信者なのだ。
そんな無宗教の信者でも、ご先祖様は供養するし、天罰だったり願掛けだったり、そういう非科学的なものを信じたりもする。
自分が今ここに存在するのは、間違いなくご先祖様たちが命を繋いでくれたからだし、神社や教会など、神聖とされる場所では失礼のないようにしようとするのは、無宗教といえど至極まっとうなことだ。
ではなぜ特定の宗教を信じていない無宗教の信者までそんな風に考えるのか。これは本質的には、宗教を信じている人と同じではないだろうか。
ズバリ未知への恐怖である。
人は、死んだらどうなるのかという疑問を常に抱えている。それは科学が発達した今でももちろんだ。
なぜか。それは未だに結論が出ていないからだ。
だからこそ神に、宗教にすがるのだ。なんでも死刑囚の中には、仏教やキリスト教などの教誨師を呼び、そこで今までの行いを悔い改め、死刑執行までに特定の宗教に帰依する者もいるという。やはり誰であれ、死ぬのは怖いのだ。
死だけではない。人間という生き物は下手に知恵をつけてしまったがために、ありとあらゆる未知のものに対して恐怖している。
だからこそ、無宗教の信者でもご先祖様に花を手向けるし、神様の存在を信じていなくても神聖な場所ではその言動に注意を払う。
 先ほどの三人も殺人こそしているが、根底の部分は普通の人と何も変わらないのだ。
 それではなぜ三人は、死を恐れながら平気で殺人をするのか。その謎を解き明かすためにも、先ほど登場した賜道教と「おくり神」についてお話ししよう。

 みなさんは賜道教という名前を聞いたことがあるだろうか。当然聞いたことがない人がほとんどであろう。
それもそのはず、この宗教はその教義ゆえに、公にはなっていないのだ。
 この宗教の教えは、決して褒められたものではない。いやむしろ危険思想そのものであり、一般的には邪教、邪宗に分けられるものである。
ちなみに邪教、邪宗とは読んで字のごとく、邪な教えや宗教のことを指す。
歴史的にみると、権力者たちにとって不都合な教えや宗教が弾圧されることもあり、そういった宗教が、邪教や邪宗などの蔑称で呼ばれることもあった。
例えば、世界三大宗教の一つに数えられるキリスト教は、江戸時代には幕府によって排除の対象となっていた。踏み絵という言葉が頭の片隅に残っている方もいるだろう。
しかし先述した通り、特定の宗教が弾圧されることのない今のこの国においては、邪教、邪宗というと、一般的な常識やモラルからはおよそ外れた教義の宗教のことを表す。いわゆるカルト宗教というやつだ。
何を隠そうこの賜道教も、傍から見ればカルト宗教に区分されるのだ。
しかしここで今一度考えてほしい。そもそも常識とは何か、モラルとは何か。人類がこの星に誕生して二百万年、それは途方もなく長い時間のように感じられるが、地球がこの宇宙に誕生して既に四十六億年。人類なんてまだまだ赤ん坊である。
そんな人類が我が物顔でこの星を征服し、そして築き上げてきたものなど、宇宙全体の歴史から見れば大したことはないのだ。
それでは今から、賜道教のその教義について説明していくが、今まで話したことを踏まえて、どうか偏見など持たずにゼロの状態で聞いてもらいたい。

 賜道教は、鎌倉時代に仏教が乱立した裏で誕生したといわれている。
この頃、度重なる飢饉や仏教の乱立によって、厭世観を抱いていたある下級官人の家を訪ねたのが、何を隠そう賜道教の開祖、遜贈(そんぞう)である。
この男の詳しい出自は未だ明らかとなっていないが、元々はどこかの僧侶だったそうで、様々な宗教の門扉を叩き、色々な修業を重ねるうちに、この世の中は既存の宗教では救われない、という考えに至り、山籠もりを始めた。
十年近くに及ぶ山籠もりの末、ついに悟った男は、自分の名前を遜贈と改めた。そして、自らが悟った教えを説くためにも、ある程度の権力の庇護下に入るべきだと考え、かの下級官人の噂を耳にし、取り入ったといわれている。

 山籠もりをしていたある日、遜贈は神の声を聴いたという。
その神こそ、「おくり神」であり、三人が傾倒していたあの神様なのだ。
「おくり神」曰く、人間も他の動物と変わらない下等生物であるにもかかわらず、我が物顔でこの世界を支配をしている。そのことについて、「おくり神」は非常にお怒りになられており、それゆえに飢饉を起こして人々を苦しめ、またそれと同時に、間違った教えを乱立することで、人々の心までをも惑わそうとしている。つまり今の都、並びにこの国で起きていることは天罰なのだ、と。
そして「おくり神」は続けた。今から教えることこそが、真の教えである、と。
「おくり神」の教えはいたって単純で、全ての人間が、自分たちは他の動物と変わらない下等生物である、ということを自覚するその時まで、「おくり神」の言葉を信じる者たちが人間を殺め、天界に送り続けよ、というものだった。
 人間が自らを下等生物と認めることはそう簡単なことではないが、神を信じる者によって殺められた者の魂は救われ、また人を殺め続け天界に送る者も救われると、「おくり神」は言ったという。
 そもそも「おくり神」という名前は、天界に人々を「送」ることでその者が救われ、またその人々を「送」った者は、その功績を称えられ天恵を「贈」られる。その二つの「おく」るから来ていると言われている。
 遜贈という名前も、悟りを開いたからと言って決しておごってはならない、という意味から「遜」の字を、そして「おくり神」から賜った真の教義を皆に「おくり」広める、という点から「贈」の字を取ったという。
 ちなみに、せっかくの機会なので一緒に説明すると、賜道教という名前は遜贈によって名づけられたものではなく、後々になってこの教えを伝播するためにつけられた名前であり、「おくり神」によって正しき「道」を「賜」る、という意味から、賜道教となったとされている。
 ではなぜ遜贈はこの教えを多くの人に広めようとしなかったのか。これには大きく三つの理由があるとされている。

 まず一つが、「おくり神」によるこの教えがいかに正しいものであるとわかっていても、今ある常識を崩しかねないこの考えは認められるとは思えない上、もし自分がこの教えを広めたことで弾圧され、この教え自体が闇に葬り去られては、自分が悟った意味がなくなってしまうと考えたからだ。
つまり遜贈は、あくまでこの教えを長い目で見て生き延びさせることを考えたのだ。

 次に、この教えは「おく」るものと、「おく」られるものがいることによって成立している。そのため、信者同士の「おく」りあいをよしとしないこの宗教において、もし仮に全ての人が帰依してしまっては、「おく」ることができなくなってしまう。
 もちろん帰依した全ての信者が、本当に賜道教を信仰していればそれでもいいのだが、どんな重厚な守りにも綻びはある。どこかで信仰しきれないものがいた場合、小さなひびから崩壊は始まり、やがて取り返しのつかないことになることを危惧したのだ。

 そして最後に、もし自分の私利私欲のために、この教義を悪用して人を殺すものがいた場合、それは「おくり神」の教えに反すると考えたからだ。
 だから遜贈は、信頼のおけるものにしか賜道教のことは教えず、その後も認められたものしか賜道教の教えを広めることはできなかった。
 しかし、こういった教義は時代とともに変化し、かつて抱いていた夢や希望は時間が経つにつれて風化してしまう。
 例のカップルもどきの殺し屋たちは、自分が生きるために教義を利用して稼ぎ、あのあどけない笑顔の女子高生は、完全に自分の快楽を満たす言い訳として教義を利用していた。
 確かに現代社会も様々な問題を抱え、闇の深い部分もあったが、遜贈が悟りを開いたころのように、飢餓に苦しむ人がいたり、様々な宗教が乱立するような背景がない今の時代において、賜道教の教えは殺人の免罪符でしかなった。

この記事が参加している募集

スキしてみて