需要と供給

月明りだけを頼りに、私は極寒の波止場を前へ前へと進んでいった。雨こそ降ってはいなかったが、吹き荒ぶ風はあまりにも強く、一歩一歩踏みしめながら歩みを進めた。
始めの頃はあまりの寒さに身震いが止まらなかったが、今となっては最早、寒さを通り越して痛みさえ感じるようになっていた。
波止場の先端に到着したところで、改めて辺りを見回してみたが、私以外に誰かがいる気配はやはり感じられなかった。
ここら辺は夜釣りの名所として知られているため、普段なら夜中であろうと数人の釣り人が座っているのが常だったが、今夜は十年に一度の大寒波が来るというだけあって、そんな酔狂な人間は一人もいなかった。
もちろん、かく言う私も夜釣りをしに来たわけではなかった。

今朝のことである。ビジネスホテルで朝食をとっていると、横に座っていた中年男性二人の会話が聞こえてきた。
「今夜は十年に一度の大寒波が来るんだってよ。」
「十年に一度?そりゃあ相当だな。」
「ああ。明け方に目が覚めちゃったから、ちょっとここら辺を散歩してたんだけど、昨日港であった漁師さんいたろ?」
「ああ、あのガタイの良い。」
「そうそう。あの人が、今日はとんでもない寒波が来るから夜釣りに行くなよ、って教えてくれたんだよ。」
 男は、おそらくそのガタイの良い漁師と思われる、およそ似ていない雰囲気だけのモノマネをしながらそう言った。
 まだ十年に一度の寒波が来たわけでもないのに、実に寒いものだ。
「せっかく休みをとってきたのに……」
 もう一人の男は、先ほどの浅はかな漁師のモノマネには触れず、ただただ悲しそうにそう呟いた。
おそらくこのモノマネをした男は、日ごろからそういった行動が目に余る人間なのだろう。
 ここまで自分勝手に分析したところで、盗み聞きしている分際で我ながら随分ひどいことを思うものだと思いながら、それと同時に、ここまで妄想を張り巡らすことができる自分に半ば感心するのだった。
「まあそれでも地元の人が言うなら間違いないだろ。今日は早めに撤収しよう。」
「それもそうだな。いくら釣りが楽しいからって、命あっての物種だ。」
私はスクランブルエッグとソーセージを頬張りながら最後までしっかり聞き耳を立て、決行するならば今夜しかないと、固く心に誓うのだった。

 波止場に誰もいないことがわかると、目の前にある大海がまるで自分のもののように感じられ、それと同時に、暗闇と同化した大海に自分が食われてしまいそうな恐怖も感じた。
いや決して、今になって怖気づいたというわけではない。
私はこの大海に「食われる」のではない、この大海に私を「食わせてやる」のだ。
改めてそう自分を鼓舞すると、私は波止場の上から荒れ狂う大海を睨みつけ、覚悟を決めた。
「よし、いこう。」

私はまず初めによく履き古した青いスニーカーを脱ぎ、さらには靴下まで脱ぐと、そのスニーカーの中にくるっと丸めて詰めた。
さすがに素足は冷える。自分の足が凍ってしまったのではないかと思うほどだった。
この青いスニーカーは、初めてのバイトの給料で大学生の頃に買った靴だった。決して高いものではなかったが、とても思い出深い品だった。
そして次に、茶色いダッフルコートを脱いだ。
このコートも私にとって、とても思い出深いコートだった。
このコートは、大学生の時に合コンで知り合って付き合い始めた社会人の彼女から、クリスマスプレゼントに貰ったものだった。
結局その彼女からはバレンタインを待たずして、あなたは子供過ぎる、と振られてしまったが。
しかし情けないもので、今になっても彼女のことが忘れられず、またこのコートも決して安物ではなかったため、捨てることができなかった。
私はそんなことを思い出しながら、全身に纏った思い出の品々を一つずつ脱ぎ、ついには極寒の波止場で全裸になったのだった。

強い風が吹き荒ぶ極寒の波止場に全裸で立ち尽くす男。
傍から見ると、露出癖のある狂人のように見えるだろう。いやもしかしたら一種の高尚な芸術に見えるだろうか。
芸術家は変態であると、私は常日頃から思っていた。そう考えると、私は今この瞬間、芸術家と呼ばれるに値する人間になったのかもしれない。
もちろんここで断っておくが、私は露出狂でもなければ、まして芸術家などでは到底ない。
私は……何者なのだろうか。
頭の中に残る嫌な感覚を払拭すると、私は脱いだ洋服を丁寧に畳み、そして足元に重ねて置いた。
私は深く深く深呼吸をした。外の冷気は肺が凍ってしまうかと思う程に冷たかった。

大丈夫、今の自分にならばできる。

そして次の瞬間、私は目の前の暗闇に身を投げ打った。
 暗闇に飲まれた瞬間、色々な感覚が私を襲ってきたが、痛いほどの寒さに襲われ、まともに体を動かすことが出来なかった。
 元よりまともな泳法も知らない私は、例えこの大海が心地いい温度だったとしても何も出来なかっただろう。
 そのうちに息が続かなくなり、脳の方からもがくようにという指示が出ているのを感じたが、私はその指示に抗い続け、静かに静かに溺れていった。

 どれほどの時間が経ったのだろう。いやおそらく時間にしてみればそれほど経っていないのかもしれない。
私は今まで生きてきた中で、間違いなく一番の苦しさを味わっていたが、自分でも驚くほど冷静で、ただただ静かに溺れていた。
 今の私には、もがいてもがいて陸に上がり生き抜くことよりも、このまま意識が遠のいていったときに見えてくる最期の風景の方が断然興味深かった。
 ふと私の脳裏に幼少期の思い出が浮かんできた。
おおこれが最期の風景、いわゆる走馬灯というやつなのだろう。
そう思うと息苦しいはずの私は、とても心地よい気分になっていった。

 私はこれでもお坊ちゃんという部類に分けられる人間だった。
 不動産業を営む父と、貿易会社の社長令嬢の母との間に、男三人兄弟の三男坊として生を授かった。
幼少期から何不自由なく生活していた私には、手に入らないものなど何もないように感じられた。
両親も、こういった家庭にしては珍しくとでもいうのだろうか、とても温和な性格で、息子たちに立派になってほしいという夢を抱きつつも、決してそれを強要することはなかった。
勉強をしない時なども頭ごなしに怒鳴りつけたりはせず、しっかりと私の目を見て、なぜ今勉強がしたくないのかを問い、そこに私なりの筋の通った理由があれば、それなら今日は別のことをしよう、とにこやかな笑顔を浮かべながら言うのだった。

 私は幼稚園からいわゆる名門と呼ばれる学校に通っていた。いや、通わされていたといった方が正しいかもしれない。
そういう点においては、私の両親も、よくある裕福な家庭を真似する貧しい発想しかなかったのだ。
しかしあの学び舎に通わせてくれたことに関しては、私はとても感謝している。
あの学び舎で学んだこと、得た経験、かけがえのない友人。間違いなくあの学び舎に通わなければ得られなかったものだ。
もちろん、他の環境だったら他の環境だったで、その環境でしか手に入れられないものを手に入れることができた。
しかし人生は一度きり。無数の選択肢があるにもかかわらず、進むことができる道はただ一本のみ。
だから他の道を妄想しては比べることしかできない。
隣の芝生は青く見える。それでも私は、自分が歩んだ道は、青々とした芝の道だったと強く思っている。
だから、感謝はしているのだ。

そんなことを考えているうちに、どんどんと意識が遠のいていくのを感じた。
その頃になってようやく、私は死ぬことについて後悔の念を抱き始めていた。

私は、こんな離れた地での自死を選びながら、しっかりと名前の入った遺書をビジネスホテルに残してきていた。
なんだかそれはとても卑怯な行為であるように思われた。
薄れゆく意識の中で、私は気づいた。そうか、私はただ死にたかったのではない。誰かに私の死を悼んでほしかったのだ。
 そもそも、真にして死にたいだけなのであれば何も残さず死ねばいい。
それこそ、誰にも見つからないような山奥で首を吊るか、遺書など残さずに大海に身を投げうてばいい。
しかし私にはそんな勇気はなかった。私はやはり、誰かに私の死を知ってほしかった。
 そんな私の心の奥底に秘められた邪な気持ちに気付くと、急にこれまでの行動が浅はかに感じられ、恥ずかしいという感情に襲われ始めた。
そしてそんなことを思えば思うほど、私は死ぬのが怖くなり、途端にもがき苦しみ始めた。
しかし、誰も救ってくれるはずもない。この波止場には、誰もいなかったのだから。
私は後悔の念に押しつぶされそうになりながら、苦しみ、溺れていくしかなかった。

ザボーン!

 水の中にいても聞こえるほどの激しい音とともに、何かが水に入ってきて私の体を引き上げるのを感じた。
 ああ助かったのだ……薄れゆく意識の中で私はそう歓喜した。
そう歓喜してしまったのだ……。

「大丈夫か?」
 男の声が頭の上から聞こえてきた。
「はい……」
 ゆっくりと目を開けながら私はそう呟いた。
「全く、何してるんだ。」
 男は荒波にも負けない声量で叫んだ。
「すみません……」
 情けないことに、私の口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。
「まあとりあえず、助かったからよかったよ。」
「ありがとうございます。」
 私は消え去りそうな声でつぶやいた。
「色々聞きたいことはあるんだけど、とりあえず、服はどうしたの。」
 男は少し顔を背けながら尋ねてきた。
「あ、いや、波止場の上に。」
「波止場?」
 男は立ち上がると少し辺りを見回してから首をかしげた。
「服なんてないけど。」
 荒波になるほどのこの天候だ。おそらく私の服は大海に投げうたれ、海の藻屑と化したのだろう。
「もしかしてあんた、露出狂?」
「いや、そういうわけでは。」
「誰にも見られないのをいいことに露出して歩き回ってたけど、海の中に落ちたんでしょう。」
「いや、違うんです!」
 私は強い口調でそう言った。
「いやでもねえ、説得力がないよ。」
 男は蔑むような目で私を見た。
 私も改めて自分の格好を見、ぐうの音も出なくなってしまった。
「信じてもらえないかもしれませんけど、実は、死のうと思ってて。」
 私が意を決してそういうと、男の目つきが急に変わったのが分かった。
「んん、そういうことか。」
 男は自分で着ていたダウンジャケットを脱ぐと、私にスッと差し出した。
「え……」
「さすがにその恰好じゃ寒いでしょ。着なよ。」
 私は一例をすると、男からダウンジャケットを受け取った。
 その頃になってようやく、外が寒いことに改めて気づき、すぐにダウンジャケットを身に纏った。
「何にせよ、ここは危ない。ここら辺じゃ、この時間まで空いてる店もないし、とりあえず少し行ったところにコンビニがあるからそこに行って暖を取ろう。」
「いやでも、この格好だとさすがに。」
 いくらダウンジャケットを借りたからと言って、その下は全裸である。さすがにその恰好でコンビニに近づくわけにはいかない。
「じゃあこうしよう。コンビニが見えたところで俺が一旦コンビニまで行って、着れそうなものを買ってくるから、それに着替えてコンビニに入ろう。」
 私は男の優しさに触れ、目頭が熱くなり、何も言えなくなってしまった。
「大丈夫?」
「……あ、はい。」
「とりあえず行くよ。」
「はい。」
 私には黙って男のあとをついていくしか道は残されていなかった。
 歩き始めて少し経つと、ようやっと現実に戻ってきた気がして、そうすると急に寒さを感じ始めた。
 そしてダウンジャケットこそ借りたものの、足は素足。地面から伝わってくる冷たさで底冷えし始め、また素足で歩いているとどうにも足裏が痛いという当たり前の感想にたどり着いた。
「それで、なんで死のうとしたの。」
「それは……」
「ああ、ごめん。さすがに野暮だったか。」
「いえ。」
 男からの質問に、私はうまく答えることができなかった。
「じゃあ、なんで全裸で飛び込んだの。」
「それは、海と一体になれるかなって。」
「海と一体に?」
 男の返答に少したじろいだ。
「あ、すみません。」
「別に怒ってないよ。聞かせて。」
「その、海に食われるというより、海に食わせてやるっていうか、そうすることで僕自身が海の一部になれるんじゃないかなって。」
「海の一部になる?」
「あの、生物って海で誕生したって言うじゃないですか。」
「うん。」
「だから、最後は海に帰るのがいいのかなって。」
「それで全裸に?」
「はい……」
 男は急に笑い出した。
「はは、なんかよくわからないけど、あんた面白いね。」
「あ、ありがとうございます。」
 私はぺこりと一礼した。
「で、まだ死にたいの。」
「それは……」
 なかなか答えづらい質問をしてくるものだ、と私は思った。
「何だこいつ、って思うかもしれないけど、これって重要だよ。だって、やっぱり今すぐ死にたいです、っていう男をコンビニまで連れてって服買ったってしょうがないだろ。」
「はい……」
「で、どうなの?」
「正直、わかりません。今すぐに死にたい気持ちは消えましたけど、それでも明日になったらどう思うやら。」
「なるほどね。」
「すみません。」
「いやいいよ、あんたの人生だし。」
「はい。」
 私は返事になっていない返事をするしかなかった。
「じゃあこうしよう。次死にたくなったらまた俺に教えてくれ。」
「え、お兄さんにですか。」
「そう。そしたらさ、俺に殺させてよ。」
「え……?」
 私は先ほどまで命の恩人だと思っていた男からの思わぬ提案に、何も言えなくなってしまった。
「俺も心のどっかじゃ、人を殺してみたいと思ってたからさ、だから、それなら需要と供給が一致するでしょ。」
「いや……」
「いや別に死にたくなかったら、連絡しなけりゃいいだけだから。俺から急かしたりもしないし。」
「いや……」
 男は急にこちらを向くと、両肩を力強く掴む。
「な?」
「はあ……」
「よし、決まり!」
 まともに反応できなくなった私をしり目に、男は嬉しそうな表情を浮かべていた。
「ほら、あそこ。」
 男が指さす先を見ると、そこにはぼわっとした明かりが輝いていた。
「ちょっとひとっ走りしてくるから、あんたはゆっくり来てよ。」
 男はそう言うと、さわやかな笑顔を浮かべてコンビニに向かって走り出した。
 私は兎にも角にも、コンビニを目指してゆっくり歩くことしかできなかった。

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