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五十嵐早香のnoteは何故、面白いのか?第9回「次は何に生まれ変わりましょう?」

 皆さんは、生きていて「なんで普通の人が出来ることが、同じように自分は出来ないんだろう?」と考えたことはないでしょうか?

 恥ずかしい話ですが、僕はわりと普通の人が普通に出来ることが出来ません。たとえば、普通の人が計画的に進めるべきことを、締め切りギリギリになってやったせいで、「これをもっと早くからやっていれば…」と後悔したことが一度や二度ではありません。
 誰かに指摘されたことを一度で直せません。
 六回ぐらい同じミスをして、やっと出来るようになります。ミスする度に、多分、相手が失望したんだろうな、という瞬間を感じて落ち込みます。
 僕にもできると思ってその人はお願いしたのに。
 全く出来てなくて。
 それでも、また期待してチャンスをくれたのにできなくて。
 そんな時、世の中の人がみんな偉い人に見えて、自分がとても惨めに思えます。
 自分なんて、なんの価値も無いと。
 そんな時、あなたの目に自分は、どんな風に見えるでしょうか?
 五十嵐早香さんの今回のnoteは、自分に対して「無能」という烙印を押す状況から始まります。
 まずは、こちらの文章を読んでみてください。

 いかがだったでしょうか?
 まずは、内容をじっくりと見ていきましょう。
 この物語は部屋で落ち込んでいるところから始まります。
 何も上手くいかないし、状況を改善しようと動きもしない。
 「やるべきこと」をやらないから、どんどん「やるべきこと」が増えて、気付いたら、締め切りとかが過ぎているんでしょうね。「できないこと」にメガ進化してしまうわけです。
 まず、この物語の根っこの部分にあるのは、この状況です。
 多分、まともに暮らされている方なら「いや、早くやることやりなさいよ」と思われるのではないでしょうか。ただ、それは物語の主人公も理解しています。「自業自得」だと認識しているわけです。客観的に自分が見られるのなら、余計に早く行動すれば、と思われる方もいるかも知れませんが、こういう時って、出来ないんですよねえ。まだ、明日があるでしょ、とか。
 そんな自分のことを知的生命体とはかけ離れた存在である「ウニ」になりたいと考えます。この「ウニ」のことを別の言い方で本文中では「無能」とも言い変えています。家の中で食べているのは、キャベツ。お金も今、余裕がないのかも知れません。
 で、ここで覚えておいていただきたいのが、「やらなきゃいけないこと」をやっていないせいで、「できないことになっている」という状況です。これが理由でウニになりたいと思ったわけです。

 さて、ここで彼女は眠りに落ちます。
 起きると、なんとウニになっているではないですか!
 カフカの小説「変身」では、起きたらザムザは芋虫になっていましたが、先ほど連想したウニなんですね。
 ここで彼女は安心感を覚え、じっとしています。
 ここで彼女はサンゴらしきものや海藻らしきものを食べます。
 いい感じなんですが、味の描写はありません。 
 また、ここで注目していただきたいのは、ウニは満腹にはなりません。
 なれないのかも知れません。食べるものはあるし、じっとしていて安心感はあるけれど、満腹にはならない。
 ウニの彼女は、「ウニなんていつぶりかなー」というオジサンの食欲を、どこのお店で料理になり満たすことで、初めて「立派なウニ」になります。
 食べられることで「立派なウニになる」というのは、誰かの役に立つとも消費されるとも受け取れそうですが、いったん置いておきましょう。でも、このオジサンのセリフと食べられることで立派になるということは覚えておいてください。

 実はこれはウニなる夢だと気づいた彼女は、安心感と共に目覚めます。
 布団の中にいる間はまだ、夢の世界、ウニの世界の感じが少し残ってるんですかね。
 やがて、彼女は友人に誘われてお寿司屋さんにいきます。
 このお寿司を食べる場面なんですが、気になる描写が一つあります。
「ウニなんていつぶりかなー」
 これ、さっきのオジサンは太字でしたが、今回は普通の書体なんですよね。じゃあ、夢の中でウニを食べてたオジサンは誰なのか?
 僕はこの話の主人公ではないか、と思います。
 「無能」な自分を自分で食べていくという感じがしました。
 ここから変わろうという意志のようにも感じます。
 夢では感じなかった味覚がここでは描かれています。というか、やっと味覚が出てきました。世界を実感した感じがします。そして、十分に満足した彼女は、2つ目のウニは食べません。もう自分の「無能」な部分を解消したからかも知れません。次にとっておくことにして、別のお寿司を食べます。
 友人にウニについて聞かれた彼女は、何故、ウニなりたいと思ったのか理由を忘れています。そのことについても、特に深い意味はないと結論づけます。しかし、また、いつかウニになりたい日がくるんではないか、と考えます。
 
 ここで、僕なりに文章の内容を考え直してみましょう。
 ウニになりたいと考えた理由を皆さん、思い出してください。そう、「できないこと」が山積みの状況ですよね。この状況自体は、文章の中で何も変わっていません。彼女の外を巡る状況は変わっていないわけです。
 じゃあ、何が変わったのか。
 何かが満たされたのではないでしょうか?
 まず、この文章を通じて出てきているものが二つあります。 
 食べ物と食べる行為です。
 食べ物は、キャベツ( 味の描写なし )、サンゴ( 味はしない )、海藻( 味はしない )、ウニ( 味がする )。
 食べるという行為は、ウニ( 現実・比ゆとしての )、ウニ( 夢の中の )、おじさん( 夢の中の )、主人公( 現実 )がとっています。
 こうして並べてみると、食べることで味を感じるのは、現実の世界のウニだけです。
 単純に空腹が満たされたということで、前向きになれたということが書かれていると読み取ってもいいと思いますが、僕は、もう少しだけここまでの読解を元に、考えてみたいと思います。それは、「無能」な自分の象徴であるウニを自分で食べたことで、前向きになれたのではないかということです。また、夢の中でオジサンに食べられるというのは、一度、死んだ。生まれ変わったということの象徴として読むことも出来るかな、と思います。
 状況は変わっていませんが、心の中は満足している。
 おそらく、ここから彼女は現状に立ち向かっていくでしょう。
 もう手遅れのこともあるかも知れませんが、傷を最小限にするために現実と向き合っていくでしょう。
 ここで終わればハッピーエンドですが、早香先生のnoteは、まだ先があります。
 次にこの満足感を失った時、自分はまたウニになるのだろうか?
 それとも、ウニ以外の何かになるのか?
 今回は、ウニという食べられるもの、飲み込めるものでしたが、どうあがいても食べられないような強固なものになってしまったら。食べられないものになってしまったら。そんな不安な想像を思い起こさせてこの文章は終わります。

 ここでもう一回考えてみたいのが、自分が絶望感や無力感をいだいた時に、どんな状態になっているだろうか、ということです。ウニのように食べられるものでしょうか、それとも、もっと怖いものでしょうか?

 中島敦の短編で「山月記」という作品があります。
 発表から50年以上たっているので、もう著作権フリーで青空文庫で読めます。

 自分の詩の才能があるのですが、役人として才能を浪費することに飽きた李徴(りちょう)。彼は役人を辞めて、詩人として出世しようとしますが、うまくいかず、結局、また役人に復職します。しかし、ここでは昔ナメていた同期とかが既に上司のポジションになっています。悔しさや恥ずかしさから、彼はどんどん孤立して行きます。ある日、李徴は虎になってしまい、失踪します。なんで虎なのかの理由はありません。気づいたら、兎とか食ってます。怖すぎる。ただ、なんとなくこの後の言葉から分かるのは、彼のプライドがどんどん自分を怖い虎に変えていったのではないか、ということです。プラス、この人、家族がいるのに自分の詩のことばっかり考えて、全然、周りに優しくできていなかったということも挙げられそうです。
 さて、李徴が失踪した翌年、彼の友人である袁惨(えんさん)が月夜の森を歩いていた時、闇の中で李徴に似た声を聞きます。そこで、袁傪は自分の友の李徴ではないか、と問いかけます。そこから李徴の事情を聞いていきます。そして、自分の詩を書きとらせて、妻子のこともお願いします。いや、順番!と思いますが、本人も作中で反省しています。彼は日に日に、人間としての時間が減り、虎として生き物を食べる時間の方が増えているそうです。悲しいですが、帰りにこの道を通ったら襲ってしまうかも知れないから、通らないでね、とお願いします。
 なんと悲しい。そして、袁傪たちが旅立ち、谷の辺りで振り返ると、一匹の虎が出てきて白く光りを失った月を見て二、三回吠えて去ります。

 すんごい雑に紹介してしまいましたが、なりたい自分と現実の自分がうまくバランスが取れなくなった時に、人は人間の形をした別のものになり、本当に違うものになってしまうのかなあ、とぼんやり思います。
 
 じゃあ、そんな絶望に飲み込まれそうなとき、僕らは何をすればいいのか、食べることで心が豊かになる人もいるでしょうし、誰かと話して心が落ち着く人もいると思います。
 そして、言葉にしたり、文章にしたり、物語にしたりすることで、少しだけ心が落ち着くということもあるのではないでしょうか?
 物語にすることで、その絶望を客観的に見られたり、同じ絶望を感じている誰かの心に寄り添ったりできるのではないか、と思います。
 虎になりそうな誰かの心をウニで食い止めたり、ウニになりそうな誰かの心を人に留めたり。そんな力が五十嵐早香さんの文章にはきっとあると思います。食べられること、つまり、消費されることで「立派なウニ」になるのは、やっぱり寂しいです。だって、食べられたらよっぽどの味じゃないと思い出されないです。それなら、いくら未完成でも無能だと思われても、「立派じゃない人間」の彼女が作る文章は、ずっと誰かの心に残っていきます。人生の中の絶望や悲しみがあるから、毒にも薬にもならない文章と違って味がするんだと思います。そして、僕みたいな当たり前のことが当たり前にできない人間は、文字通り救われてるんだと思います。
 今、人生が順調な人もいつか、絶望に陥ったら、いつかこの文章の味わいを思い出してほしいです。ウニになる前に。

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