音楽よもやま話 -第4回 椎名林檎- 一介の26歳男性による抽象的概念的考察

はじめに、空っぽな人間に

 10代の少女が自分を指し示す言葉を見つけあぐねている時、僕はその真横でテレビに映る椎名林檎を見ていた。CDTVの歴代なんとかランキングだ。ギブソンのギターを鋭角に持ちながら彼女は「ギブス」を歌っていた。テロップに流れる、いわゆる林檎節な歌詞が刺激的だった。10代の僕にとって、少々刺激が強く、かなり暴力的でセンセーショナルな魅力で溢れていた

i 罠 be wiθ U 傍に来て

ごくごくイメージな話

 その時の椎名林檎は、心を失いかけたかぐや姫か、声を失いかけた人魚姫のような悲劇的童話のヒロインみたいな金切り声と巻き舌で、嫌だと言っているのに僕を執拗に手招いてくれていた。それで仕方なくその心に触れようとする。椎名林檎の心は、身長178センチの男でも入れるくらいとても大きな建物で、外観は極めて教会みたいなものに近い。長崎に修学旅行に行ったときに見た、和のテイストが施された教会のような、そんな感じだ。その教会的建造物のドアを開けて「林檎の部屋」へお邪魔するわけだ。豪華絢爛なステンドグラスが窓枠にはめられているだけで、生活に必要なものが何もない部屋だった。衣装棚もテレビもソファーも冷蔵庫も、一冊の辞書も歯ブラシもフライパンも洗濯ばさみも何もないミニマムな部屋だった。ただ、部屋の中央に意味ありげに支柱が、首を斬られた古代ローマの王様のごとく建っていて、ステンドグラスを通してカラフルに彩られた陽の光に照らされ様々な表情で僕に触れられるのを待っていた。床と天井を支える役目を失った支柱などに意味はない。

 支柱は何かを差し出すのを待っている感じだった。仕方ないから僕はコートのポケットから小箱を取り出し、支柱の斬られた断面に、その中身の分からない小箱を置くわけだ。振ってみても音がしないから何も入っていないかもしれない。でも、音がしないからと言って何も入っていないとも限らない。何かで満たされていたり、何かがぎゅうぎゅう詰めに入っているのかもしれない。玉手箱的なものか、パンドラの箱みたいなものなのか。デイヴィ・ジョーンズの宝箱みたいに音がすれば少しは推測が出来たかもしれない。
 いずれにせよ、開けてみなくてはわからないそのシュレディンガー的小箱を置いて僕はその宗教的建造物をあとにする。

椎名林檎その人

 誰しも彼女の音楽に触れる機会があると思う。僕はその昔、学生だったころアカペラサークルに入っていて、彼女の音楽をいくつか演奏したり、演奏されているのを聞いたことがある。ギブス、丸の内サディスティック、キラーチューン(これは事変だけど)、長く短い祭り、群青日和(これも事変だな)…。デビューから20年経ってもたくさんの人々を魅了している。しかし、自分を指し示す言葉を見つけつつある大人の僕らにとって、今度は椎名林檎を指し示す言葉を失いつつあるような気がしてならない。「エモい」じゃ日本語が足りないよ。あるいは、こう考えてみる方がいいかもしれない。椎名林檎の音楽に自らを重ねすぎてきたかもしれない。椎名林檎の音楽が語る唄が自らの過去の経験や、自らの心の内にあったにせよ、本当はなかったにせよ、たぶん、それは椎名林檎が紡ぐおとぎ話の最も望む展開なのかもしれない。


 彼女はひどく眩しい存在で、(なんかチープな表現になってしまうが)神々しく、光り輝く存在である。でもあまりに眩しいので瞼を閉じる。瞼の皮膚というのは身体において最も薄い皮膚であるから、彼女の存在は瞼の裏にまで焼き付いてしまっている。ただし、ネガフィルムのように白黒反転してしまって、あまりに違う表情を見せてくるのだ。時々目も合わせることすらできないので、仕方なく顎にある一点のほくろを見つめる。

再び、ほとんどイメージだらけの話

 ある日、僕は彼女の心の部屋に、小箱を置いたままなのを気になって再び訪れる。すると、不思議に彼女の部屋は色んなもので満たされていて、なぜかとても安心する。衣装棚もテレビもソファーも冷蔵庫も、辞書も歯ブラシもフライパンも洗濯ばさみもある。衣装棚には、ジーンズやシャツや、フェイクファーのコートや、ウエディングドレスや浴衣や着物まで全部綺麗に整頓されている。テレビではつまらないワイドショーが流れていて、ソファーには英和と和英の辞書が置いてある。冷蔵庫にはそれほど食べ物は入っていなさそうだが、干されている食器を見るに、丁度買い物に出かけている頃合いなのかもしれない。洗面所には、何本かの歯ブラシが珍妙な新種の生物のように陳列されていて、洗濯ばさみは洗濯ばさみらしく洗濯物を挟んでいる。
 支柱だけが相変わらず首をもがれたままではあるものの、それは色とりどりのステンドグラスによって、コロコロ表情を変える。それで、僕はそこに置きっぱなしの小箱を再び手に取る。それを振ると音がする。それでも何が入っているのかは開けてみなければ分からない。液体のようにポコポコと鳴っている気もするし、カサカサと紙が擦れる音が鳴っている気もする。ドクンドクンと何か鼓動が波打っているような気もする。
 椎名林檎に預けておいたシュレディンガー的小箱は命題を変えて僕に問いかける。開けてみなければ、何が入っているかは分からない。そもそも最初から中身が入っていたのにもかかわらず、僕は気づけないでいたのかもしれない。あるいは最初から中身は入っていなくて、椎名林檎が何か僕のために入れてくれたのかもしれない。
 夢から自力で目覚めた眠り姫か、ガラスの靴ではなくスニーカーを手に入れてはしゃぐシンデレラ的ステップを鳴らして、誰かが宗教的建造物に帰ってくる音が聞こえる。

 一介の26歳男性にとって椎名林檎その人とその音楽は、そういう抽象的概念的考察のように、我々が最初から持っていた小箱とその中身への関心を最大限に引き出してくれるものである。

とりとめのないあとがき

 彼女は類まれなる言語的センスと音楽への理解を持っていて、素晴らしい表現者だ。この、ワインレッドの心のカバーなど、彼女の表現者としての側面を純粋に映し出していて、まじで昇天しちまいそうだ。

 あの頃、自分を指し示す言葉を見つけあぐねていたたくさんの少女たちが、彼女の音楽に触れることができたのは、このろくでもない世界における一つの奇跡にほど近い。そして、僕らがそのろくでもねぇ世界の真ん中で彼女の音楽に触れることができたのも一つの運命かもしれない。そして、子供にも大人にもなれるし、男にも女にもならないでいいという。自由はここだからと。あの、大きな宗教的建造物に伝わる自由の理みたいなもんだ。僕の心に芯に迫ってくる何かがある。シュレディンガー的小箱の中身はそれだろうか?

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