ポストと通知とワクワク中毒 幸せとは(エッセイ)
メールの通知は赤い丸に数字。
わたしは赤い丸がついていると嬉しくなります。
まるで、小学校から帰ってきて、ポストをのぞきこむとお手紙が入っていたかのようで。
もしくは付録つきの月刊誌の子ども向け科学の本とか。
あの頃。ポストをのぞきこむワクワク感を、わたしは日々の生活で一番ワクワクしていたかもしれないなと思い出します。
当時。なんと庶民的でありましょう。
しかし、ですよ。
これは重要なワクワクのヒントです。
それは、自分の力だけではない、ワクワクなのです。
まるで天から光が降りてくるような。
まるで宇宙から高度な暗号の信号のメッセージが届くような。
まるで夢の世界から招待状が届くような。
そのような、素晴らしいワクワクとした感覚なのです。
小学生の頃のわたしは、そのように幸せな日々を過ごしておりました。
もちろん、届かない日もありましたが。
それは、それ。
ふつうの日も必要なのだと、自分で納得できるようになったのは、ずいぶん大人になってからでした。
……、の、はずだったのですが。
メール、というものが世界に誕生しました。
メールを受信すると、受信通知が灯るようになりました。
それは、まるでポストの中に夢があった時代のようなワクワクの錯覚を引き起こします。
この通知をひらくと、大好きなひとからの大切なメッセージがあって、わたしの運命を開くような素晴らしい世界へとつなげてくれる招待状が、届いているのではないかしら。
毎回、そう思います。
だから、メールの赤い丸に数字の、受信通知マーク、好きです。
ところがですね。
人間、不思議なものでして、ワクワクが過度に多すぎると、脳ミソが疲れます。
「モーイー……。で、でも、こ、この、素晴らしいかもしれないメッセージを読まなければならない。そして、気の利いたお返事を書かなければなるまい」
という、謎の責任感により、ワクワクだったはずの通知マークを、いつの間にかシブシブポチッと押すようになるのであります。
こうなった頃には、もはや中毒であります。
大きな数字の通知があるということは、メッセージが沢山あるという大変ありがたい状況であり。なのに、疲れ果てた脳ミソはシブシブとポチッと押し。メッセージを読みます。
たいていは、私の場合は、ありがたいことにnoteのスキの通知を受信したサインでありますので、喜んで完了できます。
安堵であります。
しかし、ここで安堵はしきれないのです。なぜならば。
通知がない日があるから。
それは、つまり、喜びに慣れた脳ミソが、ワクワク中毒の離脱症状に陥るのです。
この時、わたしは何を思うのでしょうか。
「……ない」
そうです。通知の赤い丸に数字が、ないのであります。
この状況を受け止めきれないまま、他のSNSやLINEの通知をチェックしてみます。
しかし、不思議なもので、こういうときは、大抵、通知マークはどこにもないのです。なんなら既読のマークさえもない。
完璧な孤立であります。
と感じます。
と、ここでわたしは発想の転換を行うことにしております。
「ああ、これは、休憩のタイムなのだなあ」
と。
そう。人間には、余白が大切なのです。
こんなときこそ。
一息いれて。ポエムでもつくろうか。と。
周りを見渡して、美しい世界に浸ろうか。と。
大切な人を思い出して、優しさに温まろうか。と。
そうしているとですね、だんだんポカポカと温まってきてね。
こんなこといいなぁ。できたらいいなぁ。と。
夢がわいてくるのです。じんわりと、幸せが浮かんでくるのです。
ありがとう。と、感謝を感じてくるのです。
これが、わたしの、リセットできる大切な時間なのかもしれませんね。と思って。
ふふっと笑ったら、充電完了。
お家に帰って、ポストでものぞきこんでみようかな。なんて。
ありがとうね。
うれしいな。
ありがとう。
いただいたサポートは、本を買うことに使っていました。もっとよい作品を創りたいです。 ありがとうございます。