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映画とは何だろう? (『ミッドサマー』を観ながら)

仕事と私事に追われ、気がつけばこの4年間一度も映画を観ていなかった。先日、知人から『ミッドサマー』という映画を勧められ、久しぶりに映画を観に行こうという気になった。
そこでちょっと考えたこと。
以下本文です。

映画を観ること。それは現実において対象を見つめることに似ている。現実においても、わたしたちは、映画を観るときと同じように、対象を見つめながら、自身の内部における停滞と運動の契機を、それに投げかけている。対象は、当然止まったままではない。変化しないものは存在しない。対象は、物であったり、人であったりする。わたしたちの必要や害毒、愛憎はわたしたちの内側のものであると同時に、わたしたちの外側にあるものと関係を結ぶことだけを前提として、わたしたちの前に現れる。わたしたちの内側は、わたしたちの外側にしか現れない。それが対象であり、現実であり、また、フィクションである。
わたしたちは、わたしたちが「現実」と呼ぶものの枠内であっても、日常的に「フィクション」を体験している。友情、仕事へのモチベーション、政治的情熱etc。それらは、かつては「現実的なもの」として、手を伸ばせば触れるかのような実在性を持っていたとしても、ある日ちょっとしたことがきっかけで、幻想だったことを知らされる。わたしたちは、「現実」においても、遡行的にフィクションを受容しているのだ。そういった例の最もありふれたものが、恋愛の終焉だろう。かつて恋をした相手は、それが冷めてしまえば、終わってしまった映画のように、自分の「現実」と関係のない人となる。

わたしたちが捉える対象が「どういうものであるのか」、すなわち「対象の意味」は、わたしたちの内的な決定に従っている。わたしたちは、対象/出来事に巻き込まれながら、同時に対象を創作している。
わたしたちは現実を、現実というスクリーンに映写されたものとして ー それゆえに、映画よりもよりリアルなものとして ー 見えている/受容しているに過ぎない。確かに、映画の表現は視覚と聴覚に限定されているように思える。映画で観る火事の光景から、煙の匂いを嗅ぐことはできない。スクリーンに映る料理を実際に手に取って食べることはできない。しかし、だからといって、映画は視覚と聴覚だけの表現だと結論付けることはできない。なぜなら、わたしたちは映画を観ながら、映画館の匂いを嗅ぎ、その中に流れる微妙な空気を感じながら、ポップコーンやスプライトを口にしているからだ。その全てが「映画を観る」という「現実的な」体験であり、わたしたちは、ジョン・ケージの『4分33秒』を「聴く」ときと同じように、五感の全てを開きながらスクリーンの前に座っている。
映画を観ているとき、わたしたちは、映画がわたしたちの内側に入り込んでくることを、わたしたちの「現実」に映画が浸透していることを感じる。映画を観ているときのわたしたちに、「現実/フィクション」という二項対立は通用しない。映画館の中では、「現実」は、館内の暗闇の中で沈黙しているのだ。光を発し、声を上げているのは「現実」ではなく「映画=フィクション」の方である。

映画と現実の間には、根本的に質的な差はない。それゆえに、映画が表現するショッキングなシーンは、それを観る人の心に深く突き刺さる。
映画は、「現実」とのパースペクティブを測りながら、同時に自律的なコンテキストを持つ。それらのコンテキストは、観客が持つ安定した認識主体と対象の関係を解きほぐし、別の形で結び直す役割を担う。例えば、「冴えない中年男性が、映画の終わる頃にはヒーローになっていた(『ダイハード』)」り、「優しそうな好青年が、トラウマを抱えた連続殺人犯だった(『サイコ』)」りする。また、映画は、退屈で底の知れた世界を「神秘と冒険に満ちた世界に変える(『インディ・ジョーンズ』)」こともできる。それらは、映画の中で物語られる「フィクション」であって、「現実」とは異なる対象領域に属するものだが、「現実」との関係を持ち、「現実的」な認識構造に影響を与える。

映画とは、別の意味領域を歴史として背負った他者との、出会いの場なのだ。『ミッドサマー』もまた然り。
他人事であり、また「現実」ですらない『ミッドサマー』の悪夢は、スクリーンの前に座った観客たちの前に、「わたしたちの悪夢」として映し出される。


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