見出し画像

やなぎみわ展 鑑賞感想

2020.2.18 静岡県立美術館
やなぎみわ展

マルセル・デュシャンは、「何の意味もないことだ」と繰り返し言ったらしい。やなぎみわの展示は、それに対する彼女なりの返答であるように思える。無であるにもかかわらず、そこから沸き立つ存在の気配。匂い、味、音、色。


やなぎも多くの人間的思考と同様に、存在を二つに分裂させることによって捉えているように思える。男と女、老いと若さ、生と死、光と闇、存在と無。「神話」とは、その二項対立的な思考法の起源を表現した物語でもある。そのような思考に、根源的な「意味」を成す力はない。考えれば考えるほど、世界は分裂を繰り返し、本質に辿り着くことは決してないからだ。
しかし、多くの人間たちの目には、世界はそもそもの初めから、二つに割れているように見えるのである。
だから、無(意味/意義)。しかし、「そこにあるように見えるもの」を、いかにして「無」とすることができるだろうか。人間たちは、無を知覚し、無に反応し、無の平面で生きるしかないのではないか。彼女の作品からは、そんな声が聞こえてきそうだ。
ときにExistentialism、ときにNihilism。そんなところも人間的だといったところか。


わたしには、意味のないものをここまで飾り立てるだけの意思は理解できない。

しかし、彼女の作品の面白いところは、それら両項を重ね合わせることによって、その違和感を炙り出そうとするところにある。鑑賞者は、その違和感によって、それらの存在を再認する。老いと若さ、生と死、存在と無が一つであることを。炙り出されたものにはある種の虚しさが漂っている。若さとは老いの過程でしかなく、生とは死に向かうものでしかなく、存在は無と区別することができない。若さの衣を纏った老女の姿は見るに耐えないものがある。しかし、その耐え難さの中に、存在と時間が持つ異様さが潜んでいるように思えるのだ。
やなぎみわの作品において、鑑賞者は対象からその反対物が立ち上がるのを見る。女から男が、老いから若さが、死んだものから生命が、無から存在が。

時間の関係で、神話機械が動くところを見られなかったのが残念だ。駆け足の鑑賞だった。日に三回の上演で十分だと考えるのは、行政がいかに市民の生活を理解していないかが表れている。


#芸術 #批評 #芸術批評 #art #artist #芸術家 #美術 #painting #絵画 #哲学 #philosophy #批評 #criticism #review #やなぎみわ #静岡県立美術館 #miwayanagi

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?