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知らない間に注いでた、泡、こと愛情

子どもって突然、なにそれどこで覚えたのってことをするものだけど、この間お風呂に入っていると、2歳娘が私の背中を洗ってくれた。

お、お、お背中流してくれてるの…?

びっくりしていると、娘はニコニコるんるんしながら「ゴシゴシ〜♫」のお歌つきで、たっぷりの泡を手にとって、背中をさすってくれるのだった。

最初に「なにそれどこで覚えたのってこと」と言ったけれど、今回については、明らかにソースは私だった。ゴシゴシのお歌の、リズムの取り方も全く一緒。ちなみにどんなリズムかって、Eテレ「いないいないばあっ!」の前任のゆきちゃんが、魔法という名の糊を塗りながら「ぬりぬり〜♫」って歌ってたアレと一緒です。(伝わる人に伝われ〜)

その、小さな手の温かさと優しさ、するすると滑る泡の心地よさに、なんだか、数粒の涙が流れてきたのだった。

それは、「こんな事できるくらい成長したのね」でも、「思いやりのある子で嬉しい」でもなく、「たしかに私は、娘が生まれて約800日くらいの間、欠かさずこうして、娘の肌をさすってやったのだ」という確かな事実に、気がついたからだった。それは、いつも心のどこかに棲みついている、「自分はちゃんといい母親なのか」という問いに対する、ある一つの回答になっているように思えたのだ。

娘が0歳の頃、いま思えばいわゆる育児ノイローゼ気味だったわけだけど、いつからか、虐待のニュースが流れると、強烈に胸が痛むと同時に、なんだか罪悪感に似た気持ちを持つようになった。私も、虐待する母親と、そう遠くない世界にいるように思えてしまったのだ。

起きている間は常に抱っこしていないと泣く子だったこと、出口の見えない寝かしつけ、やっと寝かしつけても側にいないとすぐに起きてしまうこと、工夫しても一切食べない離乳食、私が掃除しないと一生綺麗にならない床、食べないくせに食べ物がつくとすぐに荒れてしまうほっぺ、ステロイドを使っていいのか不安でよく分からんネット情報に溺れたこと、とにかくなんだかずっとイライラしていて、よく泣いている娘を放置して、私も静かに泣いていた。冷たい言葉も吐いたしヒステリーもふつうによく起こした。

あの頃を思い出すと、いまも心の色合いに、一枚グレーのレイヤーがかかる。写真を見返すと、今の余裕ある心で赤ちゃんの娘を思いきり抱きしめたい気持ちが余裕で胸を張り裂きます。

2歳を過ぎた今は、イヤイヤ期とかもありつつ、なかなか楽しい育児生活を送っているけれど、私と娘はそんな感じのスタートを切ったので、私にはいつも心の中に一点、「私は母親としてクソ」という思いがある。でも、そんなクソな私も、どんなにひどいことをした日だって、必ず夕方には娘の肌を、優しく泡でさすっていた。人に泡で体を洗ってもらうのって、ほんとに心地がいいものです、最近、知ったけれど。

ここまでの文章を読み返してみて、まとめると「私、子どものこと毎日お風呂に入れたんですよ〜」って言ってて、当たり前すぎて笑えますが、そんな事実がふわりと救ってくれる、脆くて淡い乙女心ならぬ母親心というものが、あるのです。



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