日の名残り第12話_a

『I BELIEVE IN YOU』BOB DYLAN ~カズオ・イシグロ『日の名残り』徹底解剖・第12話


「お~い、イソグロ~!

『野球』しようぜ~!」



もしも君たちのうち誰か一人でも生き残ったら…
私の妹に手紙を書いてほしいんだ…

あなたの妹さんに…手紙を?

私にとって、かけがえのない妹だ…
あいつは私の天使だった…
あいつの笑顔だけが、荒んで汚れ切った私の心を洗ってくれた…
この名刺にある住所に手紙を送ってくれ…
兄は出張先で...そうだな、上海あたりで亡くなったと…

この名刺の住所に、ですか…
ん?
Seaweed修道院?

妹は修道女だ…
神に仕える、汚れなき身の乙女…
もちろん私の仕事のことなど何も知らない…
海外出張の多いビジネスマンだと思い込んでいるのだ…
彼女は長崎の片田舎...海が見える小さな女子修道院にいる…
どうか私の死後、手紙を届けて欲しい…

わかりました…
もしも生き残ることができたなら、必ず…


「何してるんだよイソグロ~!
そこにいるんだろ~?
早くドアを開けてくれよ~!」


よし、お前らはどこかに隠れていろ…
「こと」が済むまで息を潜めているんだ…
たとえ「どんな声」が聞こえたとしても出てきちゃいけない…

ん?
あの少年はどこへ行った?

あれ?
ええじゃろう…?

あ、あそこや…
あのどアホ、玄関に行きよった!

お待たせしました~!
いま開けますよ~!


ガチャ!


!!!!!


あ~寒かった。

遅いよ、開けてくれるのが。

ところで君は誰?

オイラ、ええじゃろう!

そしてあっちにいるのが、愉快な仲間たち!

なんだよイソグロ…

やっぱりそこにいたんじゃないか。

水くせーな。何で返事してくれなかったんだよ。

ナカヂ…

外やのうて、なかぢ!?

頼む…ナカヂ…

彼らに『野球』だけは勘弁してくれ…

彼らは何も知らない民間人だ…

彼らは全く関係ないんだよ…

何言ってんだイソグロ?

まだ何にも言ってねーじゃんかよ。

ワイらホンマに何も関係あらへんで…

ただの通りすがりやねん…

そうそう…

『姉さん』がお前のこと怒ってたぞ。

「また『宿題』サボって~!今度こそ許さないわよ!」ってな…

姉さん…

『姉さん』っちゅうのは…
Mのことやったな…(小声)

カツオさんの『姉さん』って、MってゆうよりSなんじゃね?

どアホ!

声がデカい!

ほう…

お前、度胸あるな。

どうだ、俺と一緒に『野球』するか?

わーい!

入れて入れて~!

入れてとか言うたらアカン!

ええじゃろはんには、まだ無理や!

(いろいろマズいことになってきたぞ…)

頼む…

彼らを巻き込むのだけはやめてくれ…

どうした?イソグロ…

お前らしくないな…

こんな連中に肩入れするなんて…

ハァ?

こんな連中?

・・・・・

お前は人一倍プライドの高い男だったじゃないか。

偉大なる存在に仕える身として、誰よりも誇りを持っていたよな…

こんな平民どもには一生かかってもお目に掛かれないような世界に関わっていることを、鼻高々にしてたじゃないか…

「俺たちは、世界が動く《その瞬間》に立ち会っているんだ!」って…

カツオさん…

もう、いいだろう…

その話は…

よくねーよ。

お前こうも言ってたよな…

「そもそも自分のことで精一杯の連中に選挙権なんか与えるから、世の中が混乱するんだ。偉大なる方々に全てお任せすれば、自分たちも幸せになることが何故わからないのか。品格の「ひ」の字も知らぬくせに、一国の政治経済を語ろうとする一般庶民ほど、救いようのない連中はいない…」とな。

・・・・・

さらには、こんなことまで豪語していたぞ。

「世界というのは車輪なのだ。偉大なる方々が軸となって世界の方向性を定めているのだ。世界の表層しか見えていない一般庶民どもは、中身がスカスカのタイヤ部分に過ぎぬ。奴らは世界が車軸の決定で動いているにもかかわらず、自分たちで世界を回していると信じ込んでいる始末。さらに愚かなことには、奴らは世界の表層に刻まれている溝を無くそうとまでしているじゃないか。あの溝のおかげで世界が安定しているというのに、そんなことすらわからないのだ、あの連中は。あの溝の深淵なる意味を…。我々秘密工作員は、軸の決定をタイヤ部分に伝えねばならぬ。偉大なる力を末端まで作用させねばならぬ。速やかに、そして静かに。いわば我々はスポークなのだ。世間の連中は、我々がspeakするところを知らぬ。奴らが見ている世界とは、常に我々によってspokeされた世界なのだ…」なんてな。

どこかで聞いたような話だ…

こいつ、執事スティーブンスそっくりの性格やったんか…

お前、柄にもなく弱気になったんじゃねーか?

うちらのお偉方が世間からバッシングを受けたもんで…

・・・・・

(お偉方が…バッシング…?)

おい、イソグロ。

お前には確か、妹がいたよな…

あ、ああ…

でも幼い頃に…

流行り病で亡くなったんだ…

へー。

じゃあ、お前が長崎くんだりまでわざわざ会いに行く尼僧とやらは…

お前のコレか?

ハッ!

噂によると…ずいぶんと色っぽい尼僧らしいじゃないか…

男子禁制の修道院に置いておくなんて、宝の持ち腐れってやつよ…

や、やめろ…

あいつにだけは指一本触れさせない…

そんなこといくらほざいたところで、ここにいるお前にはどうすることもできないよな…

・・・・・

ほら、いいもの見せてやる。

さっき俺の野球仲間から送られてきた写メだよ。

海の見える丘に建つ修道院の写真だそうだ…

何をする気だ…

尼僧ってのは『野球』とか知らないんだよなあ?

でも案外好きだったりしてな(笑)

まず『キャッチボール』から丁寧に教えてやらないと…

きゃ、キャッチボール…

わかった…

何でも言う通りにする…

だから、あいつにだけは手を出さないでくれ…

カツオさん…

よし。では用件に移ろう。

お前がしでかした今回の件について、Mは非常に悲しんでおられた…

お前を『野球』で失うことにショックを受けておられたのだ…

Mはお前を我が子同然に可愛がってきたからな。

実際、Mとお前を本当の親子だと思っている者もいるくらいだ…

・・・・・

だから、本来なら即『野球』のところを、今回だけ特別に執行猶予を設けることになったのだ。

もちろん組織内では反対意見も多く出た。

特例を作っては、風紀に乱れが生じると…

しかしMの深い恩情と根回しで、この決定がなされたのだ。地獄に仏とはまさにこのことだ。そうだよなあ、イソグロ…

執行猶予…

本当か…?

ああ。

ただし、無条件というわけにはいかない。

条件か…

何をすればいいんだ?

決まっているだろう…

Mと組織に対し、絶対の忠誠心を示すんだよ。

ちょ、ちょ、ちょ、ちょい待って…

その展開は…マズいんとちゃう…?

忠誠の証として、この目障りな連中を血祭りにあげろ。

そもそも生きている価値の無い奴らだ。

ひィ…((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

こんな簡単なことで組織に戻れるんだぞ。お前は運がいいな…

・・・・・

カツオさん…

やらないよね、そんなこと…

カツオさんはそんな人じゃないよね?

すまん…

悪く思わんでくれ…

嘘…

嘘でしょ!?

あいつが怖いから嘘をついているんでしょ?

・・・・・

ねえ…

黙ってないで何とか言ってよ…

仕方がないんだよ…

恨まないでくれ…

俺もナカヂも…

やるべきことをやるしかないんだ…

嘘だと言ってよ、カツオ兄ィ!

もうそのへんでいいだろう…「おセンチ」な三文芝居は。

アカン…

ここでワイたちを殺してもうたら、中断しとる徹底解剖シリーズが未完のまま終わってまうやんけ…

まずはルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』&『禁じられた遊び』の徹底解剖やろ…

それから、クリストファー・ノーランと宮崎駿の徹底解剖も…

これ以外にも途中で放り投げたままのシリーズがいくつかあったよ…

ああ…

いくつもの未完作品を残し、生前に売れることなく人生を終えるなんて、まるで僕は宮沢賢治のようだ…

ふつう人生の最期くらいは謙虚になるもんやろ…

いつかこの話がマンガやアニメになったりして!

その時はオイラたち猫になってるかも(笑)

ワイは猫になんかならへんで!

「鶴はいますか?」って言われたら「目の前におるやんけ!」ってどついたる!

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
絵:ますむらひろし(@Amazon)


楽しそうだな、お前ら。

そんなに死ぬのが嬉しいか?

いや…あの…その…

ただの現実逃避です、ハイ…

さて、イソグロ…

こいつらを始末する前に、やらねばならぬ『重要な儀式』があるんだが…

無論、わかっているよな…

儀式…

アレのことか…

アレだけはやめて!

いちいちうるさいツルだな。

少し黙ってろ。

これから『忠誠の誓い』をせねばならぬのだ。組織に全てを捧げる覚悟があるのかどうかを試すためのな…

忠誠の誓い…?

我々スパイというものは、組織に入る前に皆、忠誠の誓いを立てるのだよ。

俗世間での「しがらみ」を全て捨て、偉大なる存在と組織だけを信じ、そのために命を捧げるという誓いを、な。

・・・・・

例えば…

偉大なる存在が「今は夏だ」と言ったら、たとえ冬でも夏だと従います…

だとか、

偉大なる存在が「これは黒だ」と言ったら、白も黒に塗りつぶします…

とか、

一見、矛盾点が多くあるように思えても、偉大なる存在の”仕事”には口を挿みません…

とか。

こんなような誓いを次々と述べるわけだ。

なんという理不尽さ…

まるでジャイアンや…

ジャイアンというより『サザエ』なんだけどな…

え?

いや、何でもない…

こっちのことだ。

・・・・・

さて、例の儀式で誓う文言なのだが…

これがまたかなり長い誓約でな。時間にすると6分ほどもあるのだ。しかも何も見ずにやらねばならぬ。カンニングは即、失格だ。

6分って結構長いよ!

正しく暗唱できた者だけが、組織の一員として認められるのだよ。

もし出来なかった場合、どうなるの?

強制収容所送りだ。

どこか辺境の地で、死ぬまで過酷な重労働が待っている。

行ったことはないから詳しくは知らんが、鉄道敷設とかをやるそうだ。

こ、こうゆうやつやな…

BOB DYLAN『SLOW TRAIN COMING』
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・・・・・

カツオさん…

頑張って失敗して!

せ、せやな…

筋トレやと思えば何てことないかもしれん…

スポーツクラブ行ったらカネ取られるけど、ここならタダや…

しかも毎日大自然の中や。空気もウマい。ちょっと長いハイキングやと思えばええ…

ワイらを殺したら毎晩バケて出るんやで…

毎晩うなされる人生より、こっちのほうがええやろ…

・・・・・

儀式を始める前に、10分間だけ時間を与えよう。

スパイ手帳の1ページ目に掲げられてる誓約文を暗記したらいいい。

どうせ長いこと朗誦していないだろ?

本来は毎日、日没時と夜明けに誓約を朗誦する決まりになっているのだが、まあ、こんなことをいちいち守ってるスパイは今時いない。

・・・・・

どうしたイソグロ?

まさかスパイ手帳を持っていないなんてことはないよな?

ホテルの金庫に入れたまま…忘れてきた…

おやおや…それはマズいな。

スパイ手帳はどんな時も携帯していなければならないルールだ。

たとえ風呂に入ってても、ベッドで女を相手に『仕事』してる時も…

ジェームズ・ボンドはそんなの持ってなかったよ!

あいつは英国諜報部員だろ?

よその事情は知らん。

でも同じイギリスでしょ?

一緒にしてくれるな。

俺たちはUK(連合王国)政府の支配下にはない。あいつらは5千万人という「主権者」という名の愚民どもに運命を握られている。いくら優秀なスパイでも、予算を大幅に削減されたら、まともな仕事はできぬのだよ。

その点、我々チャンネル諸島では、そういう愚かしい事態は起こり得ない。

正義だとか平等だとか、そんな甘っちょろいことを抜かす連中が、幸運にも存在しないのだよ。クダラナイ世論なんてものを、これっぽっちも気にしなくていいのだ。まさに、この世の楽園だな。

なんとかヘブン、ってやつか…

ヘイブンや。

今風に言うとヘイヴンやな。

・・・・・

まったくイソグロには困ったもんだな…

最後まで俺の手を煩わせやがって。

仕方ない…

俺が一度だけ朗誦してやろう。

よく覚えるんだぞ。一度しか歌わないからな…


『I BELIEVE IN YOU』ボブ・ディラン
(歌:シネイド・オコナー)

・・・・・

ナカヂ、結構うまいじゃん!

ん?

この歌詞は…

もしや…


――続く――



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