見出し画像

深読み 米津玄師の『BOOTLEG』最終章『灰色と青』⑤


前回はこちら




では『灰色と青(+菅田将暉)』の歌詞を見ていきましょう。

まず最初はこんなフレーズから始まります。


袖丈が覚束ない夏の終わり
明け方の電車に揺られて思い出した
懐かしいあの風景


現代の清少納言、米津玄師め。

いきなり「明け方の電車に揺られて思い出した懐かしいあの風景」とは笑わせてくれる(笑)



ええ、米津玄師という人は本当におもしろい…

この冒頭の歌詞には、『枕草子』第二八〇段「雪のいと高う降りたるを」のように「漢詩」が引用されています…


遊子猶行於残月…

本当は「明け方の牛車に揺られて思い出した懐かしいあの風景」だな(笑)


ええ。電車に米津玄師以外誰も乗っていなかった理由はそこにあります。

「明け方の電車」とは「明け方の牛車」のこと。



しかし『灰色と青』のミュージックビデオを見た者の多くは、CHAGE and ASKA(チャゲ&飛鳥)の『モーニングムーン』を思い浮かべた。

「朝日がのぼる前の欠けた月」という歌詞を、チャゲアス「モーニングムーン」のオマージュだと思い込んでしまったのだ。



確かに『モーニングムーン』と『灰色と青』には似ているシーンが多い。

主人公以外に誰も乗っていない電車…



誰もいないトンネル…



そして「ブランコ」で待つ人…



飛鳥涼の背後にあるのはシンセサイザーを置く脚立…

しかしまるで子供用のブランコに見える(笑)



米津玄師は、わざわざインタビューで北野武の映画『キッズ・リターン』の名前を出し、ミュージックビデオでチャゲアスの『モーニングムーン』を想起させるようなシーンを入れた…

本当の元ネタを隠し、人々を誘導、ミスリードさせるために…


映画『キッズ・リターン』は「昔」と「今」で「袖丈・背丈」は1ミリも変わらない。

高校生時代も約十年後の大人時代も同じ役者(金子賢と安藤政信)が演じているからだ。

つまり『キッズ・リターン』をイメージして『灰色と青』の歌詞を書いたという米津玄師の発言は嘘…



もし本当に映画『キッズ・リターン』をオマージュするなら、ミュージックビデオの撮影場所も『キッズ・リターン』のロケ地に合わせるはずです…

高校があった川崎市宮前区の鷺沼(東急田園都市線)か、ボクシングジムがあった川崎区の小島新田(京急大師線)に…

しかし米津玄師は、あの電車シーンを『キッズ・リターン』ゆかりの川崎市ではなく、横浜市の神奈川区にある子安(京急本線)で撮影した…



本当に『キッズ・リターン』のオマージュなら川崎市内で撮影するはず。

それなのにわざわざ隣の横浜市で撮影している時点で『キッズ・リターン』の話は嘘だとわかる。

米津玄師がロケ地に「子安」を選んだ理由は2つ…


1つは、京急本線の子安駅周辺は「横浜浦島伝説」の舞台であり、浦島町・浦島新町・浦島台など浦島のつく地名や浦島太郎ゆかりの名所が点在しているから…

実際、米津玄師の乗る電車は、子安駅を出発して浦島地区を走っていた…



浦島太郎といえばタイムトラベル…

つまり米津玄師があの電車シーンで伝えようとしているのは「長い年月を超える」ということ…


平安時代へタイムスリップですね。

清少納言が『枕草子』を書いた千年前へ。


そしてロケ地が「子安」であるもう1つの理由は?


ロケ地が「子安」である理由…

それは、枕草子の「子」、そして遊子の「子」…


だからもう1つのロケ地は児童公園…

東京都渋谷区の恵比寿にある「恵比寿南二公園」だった。



米津玄師は「草子」と「遊子」から「公園で遊ぶ子供」をイメージした。

本当はどちらの「子」にも「子供」という意味は無いのに。


遊子猶行於残月…

残月(夜明け前の空に浮かぶ月・有明の月)を見ながら道を行く「遊子」とは「遊ぶ子供」ではなく「旅の人・移動中の人」という意味。

孔子・孟子・老子・荘子・韓非子のように中国語の「子」は「人」という意味だ。


そして孟嘗君の「君」も「けんし君」や「まさき君」の「君」ではない。

昌文君・昌平君・春申君・鄧麗君・蚊香君のように「偉い人」につけるもの。

何か偉大なことを成し遂げた人や、君主、領主、将軍などに。


ちなみに菅田将暉の本名は菅生大将という。

昔の中国なら「大将君」と呼ばれていただろう。



たいしょうくん。カッコいいですね。


さて、『灰色と青(+菅田将暉)』冒頭の歌詞には「遊子猶行於残月」が隠されていた。

この漢詩は『枕草子』に何度も出て来る。


百人一首の清少納言の有名な歌も、そもそもはこの漢詩が元ネタになっています。


夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも
よに逢坂の 関は許さじ

よをこめて とりのそらねは はかるとも
よにあふさかの せきはゆるさじ



その通り。

「遊子猶行於残月」は「函谷鶏鳴」とセットだからな。

この漢詩は平安貴族の間で大流行し、清少納言も好んで引用した。


佳人尽飾於晨粧
魏宮鐘動
遊子猶行於残月
函谷鶏鳴


ちなみに「夜をこめて鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ」の歌が出て来る話は、清少納言の「GET BACK」であり「LET IT BE」である『枕草子』の中で、とても重要な意味をもっています。


最も慎重に書かなければならないデリケートな話を、たわいもない恋バナ&自慢話にカモフラージュした清少納言は、本当に天才としか言えない。


 頭の弁の、職に参り給ひて、物語などし給ひしに、夜いたうふけぬ。「あす御物忌なるにこもるべければ、丑になりなばあしかりなむ」とて、参り給ひぬ。
 つとめて、蔵人所の紙屋紙ひき重ねて、「今日は残りおほかる心地なむする。夜を通して、昔物語もきこえあかさむとせしを、にはとりの声に催されてなむ」と、いみじうことおほく書き給へる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深く侍りける鳥の声は、孟嘗君のにや」と聞こえたれば、たちかへり、「『孟嘗君のにはとりは、函谷関を開きて、三千の客わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、
「夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
心かしこき関守侍り」と聞こゆ。また、たちかへり、
「逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか」
とありし文どもを、はじめのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取り給ひてき。後々のは御前に。

 さて、逢坂の歌はへされて、返しもえせずなりにき。いとわろし。
さて、「その文は殿上人みな見てしは」とのたまへば、
「まことに思しけりと、これにこそ知られぬれ。めでたきことなど、人の言ひ伝へぬは、かひなきわぞかし。また見苦しきこと散るがわびしければ、御文は、いみじう隠して人につゆ見せ侍らず。御心ざしのほどを比ぶるに、等しくこそは」と言へば、
「かくものを思ひ知りて言ふが、なほ人には似ずおぼゆる。『思ひぐまなく悪しうしたり』など、例の女のやうにや言はむとこそ思ひつれ」など言ひて笑ひ給ふ。
「こはなどて。喜びをこそ聞こえめ」など言ふ。
「まろが文を隠し給ひける、また、なほあはれにうれしきとなりかし。いかに心憂くつらからまし。いまよりも、さを頼み聞こえむ」
などのたまひて、後に経房の中将おはして、
「頭の弁は、いみじうほめ給ふとはしりたりや。一日の文にありしことなど語り給ふ。思ふ人の人にほめらるるは、いみじううれしき」など、まめまめしうのたまふもをかし。
「うれしきこと二つにて、かのほめ給ふなるに、また思ふ人のうちに侍りけるをなむ」と言へば、
「それめづらしう、今のことのやうにも喜び給ふかな」などのたまふ。


頭の弁(蔵人頭 藤原行成)が後宮へやって来て、私と話をしているうちに夜がすっかり更けてしまった。
すると頭の弁は「明日は天皇の物忌みで籠らなければなりません。丑の刻(午前0時頃)になっては具合が悪い」と言って去っていった。
その翌朝、蔵人所の紙を折り重ねて、
「今日は名残惜しい気がすることです。あなたと昔話でもしながら夜を明かそうと思っていたのに、鶏の声にせき立てられてしまいました」
と、たいそうな言葉の手紙を頂いた。とてもおめでたい。
そこでお返事として、
「そんな夜遅くに宮中に侍る鳥の声とは孟嘗君のことでしょうか」
と申し上げたところ、折り返し、
「孟嘗君の鶏とは、偽りの声で函谷関を開いて三千人の食客が逃げることが出来たという話ですが、これは逢坂の関の話(男女の話)です」
と、お返事があったので、
「夜も明けぬうちに鳥の偽りの声で謀ろうとしても、逢坂の関は決して許さないでしょう。利口な関守がいるのですよ」
と申しあげた。するとまた折り返しがあり、
「逢坂の関は人の越えやすい関所ですので、鳥が鳴かなくても門を開けて待っているとか」
と書いてあった。これらの手紙のうち、初めの手紙は僧都の君(隆円)が額をつけて大層な礼拝をしながら受け取った。
あとの手紙は、中宮様に差し上げた。

さて、頭の弁が逢坂の関(男女の関係)は簡単に越えられるなどとおっしゃるので返事に困ってしまった。とてもよくないことだ。
その後、わたしが頭の弁にお目にかかると、頭の弁は「手紙はもう殿上人の皆が知っていますよ」とおっしゃった。
そこでわたしが、「あなた様の本当のお考えが、これで初めてわかりました。すばらしいことが人に広く知られないのは、もったいないことですからね。その一方、見苦しいことが世間に広まってしまうのは辛いことなので、御文を誰にも見せないという考え方もあります。全く正反対のことですが、あなた様の広く世間に知られるべきだというお考えと、配慮の心は等しいものです」と言いますと、
「このように物事をよくわかっているところが、やはり人とは違うように思われる。普通の女どものように『思いやりの欠片もない!なぜこんな酷いことをする!』と文句を言われるかと思いました」とお笑いになった。
そこでわたしが「それはそれは。お礼を申し上げたいくらいです」と言うと、
「わたしの手紙を大事に思い、わざわざ隠していただいたことは、なんだか心に染み入る思いがいたします。どれほど心苦しく辛かったことでしょう。これからもどうぞよろしくお願いいたします」などとおっしゃった。

その後に、経房の中将がいらっしゃって、
「頭の弁が、たいそう褒めていらっしゃるということは知っていますか。一日の手紙に、このあいだの事などを書いていらっしゃる。大切に思う人が、人に褒められるのは、とても嬉しいことだ」
と、いかにも真剣に言うのがおもしろい。
「嬉しいことが二つになりました。あの方が褒めてくださるうえに、『思う人』の中に侍ることができて」とわたしが言うと、
「なんだかおもしろい。まるで今初めて知ったことのようにお喜びになりますね」とおっしゃった。


世間では、この話は「頭の弁」こと藤原行成と清少納言の疑似恋愛おのろけ自慢話だとされているが、そんな単純な話ではない。

一条天皇の首席秘書官である藤原行成と、一条天皇の后 中宮定子の女官である清少納言の関係は、こんな風に「ほのぼのとしたもの」ではないからな。


ポイントは、清少納言が行成の手紙の内容を「僧都の君」こと隆円と中宮定子に伝えた、というところですね。

行成に対して「大事な手紙は誰にも見せないもの」と言いながら、隆円と定子に内容を伝え、最初の手紙は隆円に、あとの手紙は定子に渡したという。

しかも隆円は、まるで途轍もなく重要な文書を受け取ったかのように、その手紙へ額をつけて有難がったと書かれている…


ふふふ。清少納言は笑わせてくれる。

そもそもこの話における「御文」とは、天皇への「上奏文」が投影されたもの。

くだらない疑似恋愛のやり取りを装って、行成が天皇へ上奏した文書の内容を再現しているのだ。


清少納言が好んで『枕草子』に引用したあの漢詩は、前半部が「魏の宮中」の話になっていました。

佳人尽飾於晨粧
魏宮鐘動
遊子猶行於残月
函谷鶏鳴

魏の宮中で夜明けを告げる鐘が鳴ると、後宮では美しい人が衣装を整え、化粧を施す…

清少納言は、これを利用して「本当のメッセージ」を伝えようとしたわけですね。


蔵人頭 藤原行成が天皇に上奏した御文とは「一帝二后」の進言…

中宮定子を第二夫人の扱いにして、藤原道長の娘彰子を正妻にすべし、というもの…

『枕草子』第一二九段「頭の弁の職に参り給ひて」とは、清少納言がこの「御文」について言いたいことを書いたものなのだな。

書かれている内容をそのまま読めば、行成の上奏文のことを言っているとわかるが、知的な恋愛話という先入観で読んでしまうと、本当のメッセージを見誤ってしまう。


だから清少納言は行成の御文を僧都の君(隆円)と中宮定子に伝えたと書いた。

行成が一条天皇に「一帝二后」の御文を上奏した時、中関白家の道隆・道頼はすでに亡く、伊周と隆家は叔父の道長との権力争いに敗れて配流され、残されたのは定子と出家していた末弟 隆円だけだったから…



兄道隆の息子たちを排除した道長にとって、権力を手中に収めるための最後の一手は、中宮定子を排除して娘の彰子を一条天皇の后にすることだった。

しかし一条天皇は定子にぞっこんで、定子が出家して後宮から離れた後も足繫く通い、人々から批判を浴びていた定子を再び後宮へ呼び戻すと、あろうことか子まで産ませた。

もちろん一条天皇もこれが悪いことだとわかっていたが、愛する定子との関係を自分から切ることは出来なかった。


そして道長も一条天皇に進言するのは憚られた。

さすがの道長でも「前代未聞の醜聞を晒した定子を第二夫人にして、私の娘彰子を正妻に」とは自分の口からは言えない。

そこで道長は一条天皇が最も信頼する行成に言わせることにした。

書の達人である行成に上奏文を書かせ、主を想う臣下の切なる進言という形で一条天皇に伝えたんです…


中宮定子との関係に歯止めをかけるキッカケを探していた一条天皇は、定子を第二夫人にして彰子を正妻にすべしという行成の進言をすぐさま聞き入れ、1人の帝に2人の后という道長の描いたプランは実現した。

こうして道長は天皇の義父という立場を手に入れ、宮中での権力を確実なものにしたわけだ。

一方、蔵人頭の進言という屈辱的な形で第二夫人にされた定子は、名誉の回復もされないまま、その後すぐに命を落としてしまう。

そんな一連の出来事を踏まえて、清少納言は第一二九段「頭の弁の職に参り給ひて」を書いた。


それがわかっていると、この歌の本当の凄さが伝わってきます。

夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも
よに逢坂の 関は許さじ

行成に早く天皇のもとへ行くよう急かした「謀る空音の鶏」とは、行成に天皇と彰子の結婚を説得させるよう差し向けた「藤原道長」のこと…

よく鳴く雄鶏はトサカが立派、つまり立派な冠をしている道長という意味…


藤原道長
(966 - 1028)


だから「よに逢坂の関は許さじ(男女の関係は決して許されません)」なのだな。

定子に仕えてきた清少納言にとって、一条天皇と彰子の結婚は絶対に許せなかった。

そして、それを進言した行成も許せなかった。


その後の手紙のやり取りの内容も、実はそのことについて言っている。

疑似恋愛の戯れのように装って、行成が天皇に上奏した御文のことを清少納言は言っているんです。


だから清少納言は、経房の中将とのエピローグで「一日の文」「うれしきこと二つ」と数字の「一」と「二」を出した。

行成が天皇に進言した「一帝二后」を匂わせたわけだな。


本当に清少納言の『枕草子』は深い…

米津玄師が目をつけるだけのことはある…


ふふふ。

御簾の件といい、本当に米津玄師はおもしろいことによく気付く。

夜をこめて 鳥の空音は 謀るとも
よに逢坂の 関は許さじ

この歌も、まるで「あの絵」のように聞こえるからな(笑)


ええ、確かに…

まさに「心かしこき関守侍り」です…



つづく




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?