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不歓迎社会日本

 一億総中流社会。妬み嫉妬社会。格差社会。学歴社会。少子高齢化社会。シルバー民主主義社会。「○○社会」というフォーマットでの日本への揶揄は後を絶たない。あらゆる日本人は自分自身や付近の環境を観察し、その「感情的な問題点」を「社会」に投影して批判する。やれやれ、どいつもこいつも人のせいに...と、ぼくもまた、人のせいにする自分自身を社会に投影し、嘆く。それに気づき、再び絶望。絶望したら川へ行こう。正しく絶望できる数少ない場所が都会の川だ。人間は嫌になるなあ

 今日は自己の精神的欠落を、つまり自分自身の個人的な課題を投影することを赦して欲しい。ぼくはそこまで人間ができていないので(いや、人間ではなく狼的なたぬきだった)、投影をやめられない自分をエンパワーしきることができない。投影を辞めたぼくは、あらゆる絶望の根本を自分自身の欠落に帰着させるほかなくなり、希死観念がどろどろと溢れ出て止まらなくなってしまう。

 希死観念が閾値を越えた状態の人間は、精神的欠落がさらに目立つようになってしまう。ただでさえ「社会的悪」になりかねない観念が、表面に取り繕った鎧が内側から瓦解していくことで、赤裸々に世界へと提示されてしまう。見せしめ。人は笑う。自己の精神的欠落に目を向けられない、絶望を直視しない人間ほど、嘲笑う。絶対いつかお前の番が来るよ、という皮肉を込めて一瞥をくれる。もちろん伝わるはずはない。

 話を戻す。つまり、ぼくの投影が赦された世界を前提として筆を進める。ぼくが感じる最大の絶望は「不歓迎社会」という言葉で言い表せる。不寛容社会、なんて人は言う。確かに、「寛容の国オランダ」のように大麻、売春、安楽死は寛容されない社会だが、不寛容という言葉はなんとなく日本独特のじめじめとした空気を言い表しきれていない。寛容というニュートラルな価値観が存在しないというより、もっとポジティブな精神性が欠落した何か。もっと陰湿で、暗鬱な、梅雨の終わり時にやってくる最悪の湿度と、7月も迫る初夏の圧倒的な気温が入り混じって北海道以外の日本を蝕むあの空気のように。それを、「不歓迎」としてみる。

 同期が昇進する。隣のクラスのアイツが慶応に合格する。司法の虫になった司法生が弁護士になる。高校のとき、サッカー部ではあまり冴えなかった後輩が起業に成功して軽いニュースになる。世界一周して返ってきたフランス語が一緒の浪人生が、Twitterでバズる。2年連れ添った彼氏が、突然純文学にのめり込む。小学校時代のいじめられっ子が、小説で新人賞を取る。息子が、得体のしれない宗教にのめり込む。40年来忌み嫌っていたセロリを克服する。

 具体例は何でもいい。要するに、人は生きる限り必ず変化がつきものだということだ。変化によっては、個人的に良し悪しの判断を下してしまう可能性がある。もちろん、人間には個々に特有の価値観や判断基準のようなものが備わっている。ぼくらは、その判断基準によって、かろうじて混沌としたこの「○○社会」を生きながらえることができる。自分の意思決定が、判断基準に沿っていることだけを唯一の頼りに、文字通り藁にすがるように、生きている。

 人は必ず変化するのだ。25年間生きた。25年間、1秒として同じ自分であることはなかった。絶えず何らかの情報や体験を取り入れ(あるいは排除し)、思考し(あるいは無思考に)、判断し(あるいは判断せずに)、行動(あるいは停止し)して来た。物理的にも、ぼくはこの文章を書きながら、昭和風を吹かす喫茶店の、美味しくもない珈琲を体に流し込む。カップを口に付け右手を顔の方へ傾けた次の瞬間には、カフェインを含んだ限りなく黒い抽出液は体に染み渡る。

 1秒前と同じ自分であることはない。数直線で比喩するのであれば、常に未来は現在へ流れ、過去へと消えていく。ぼくらは40兆個もの細胞 が絶えず入れ替わり、組合わさり、また入れ替わりと循環することによって、生命を維持している。中には、死滅する細胞もある。細胞が死ぬことで、自分自身は生きる。細胞は生命を維持するシステムに過ぎない。ミラーが言うように「宇宙船地球号」であるならば、一つの生命すらより大きな生態系を維持するシステムにすぎない。生態系とは、根本的に矛盾を孕む。矛盾こそ、世界を駆動させる根本的なOSであり、あらゆる概念に勝るとも劣らない美しさを持つ。いや、美は相対化できないか。

 凡庸な描写が続いてしまったが、要するに人間は絶えず、知覚できないレベルの変化続けることで生きている。「お前は変わらないな」なんて、同窓会でエモく言ってみるのも幻想に過ぎない。あいつはちゃんと変わっている。お前もちゃんと変わっている。正式に、着実に、公平に、死への変化の道を歩んでいる。不可逆な旅路を。静脈にある弁のような、人間が逆らうことができないようなシステムが呪いのように搭載されている。人間は変化する。

 日本の最大の闇は、変化に対する不歓迎的な性質そのものだ。怠惰とも言える。自分も変化を恐れ、自分以外の誰かにも変化をしてほしくない。できるだけ、自分が認識している世界か存続してほしいし、その世界の中でなるべく穏便に生きながらえたいと欲する。変化を認知すること、対応することにはコストが掛かるからだ。コストは、なるべく少なくしたい。中流家庭の家計をやりくりする主婦のように、収支表に繰り返し鉛筆を落とす。赤い粉を紙に。

 だが、事実人間は絶えず変化するのだ。この文章を読む一秒も、一文字を処理するというコンマでの時間軸でさえも、ぼくらは変化している。世界も同様に。ホームレスも革命家も総理大臣も、変化の前では同等である。同等に無力だ。その個人的な意思には一ミリも敬意を示さずに、世界は地軸を中心として周り続ける。残酷なまでに、ひっそりと、しかし確実に。着実に。ある意味で適切に。

 何度でも繰り返す。ぼくらは誰しも変化する。人間は誰しも変化する。世界は変化し続ける。人智では止められない時間的システムの中、不可逆性の中だからこそ、誰かの変化に対して歓迎的な世界は、美しいと思う。それは、自分自身の変化と他者のそれを歓迎できないぼくの精神的欠落が反映された虚像に過ぎなかったとしても。変化に対する歓迎的な、交歓的な世界は、美しいと思う。美しいと、思う。

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