見出し画像

世界を救うのはアベンジャーズではなく「意味の無さ」らしい、みたいな雑文

 起業家のメンタルヘルスの問題がある。今それにぶち当たっている狼だぬき自身、事業を経営して4年ほどになるいわゆる起業家にあたる。いわゆるというのは、自分自身を「起業家」「サラリーマン」のような図式にはめ込むことに特に意味と価値を見出していないが故の注釈のようなものだ。それでも、分かりやすく言うと「起業家」に当てはまると、思う。それで書き進める。

 そして経営していく中で、いわゆる「起業家のメンタルヘルスの問題」らしきものにぶち当たり、結果的に生まれたのがこの狼だぬきだったわけだ。自身の能力不足によって、未だ報われない思想や哲学を、何らかの形で残す衝動に駆られて生まれたのだ。自分で自分に処方する、「文章」の形をした個人的な治療薬みたいなものだ。

 おそらくほとんどうがそうなんだろうが、症状が出るまで自分が「起業家のメンタルヘルス問題」に関わるとは思ってもみなかった。確かに、感受性が繊細な方ではあるけれど、そういった症状を伴う具体的な問題は別の世界に展開するものかなと漠然と捉えていた。しかし、違った。あくまでぼくの人生のほんの延長線上に横たわる現実的な問題だった。いまだかつてない不眠と無力感がそれをぼくに知らせた。

 思えば、小学生の時に漠然と「社会」というものに違和感を覚えてからは、なにか意味を求めつづ得ていたように思う。実存的な問題から、日々の具体的な行為まで、自分の中で論理的に説明が通る「意味」を見つけることにあくせくしてきた。20の時に事業を始めてからは余計にそうだった。KPIだけがある種の指針であり、暫定的なゴールであり、制約でもあり、歓びでもあった。ストレスや疲労や、達成の際のドーパミンが吹き飛ばすものだとして等閑視していた。

 それがふと、なんの前触れもなく、身体を動かなくさせるのだ。まるで電池が切れてしまったみたいに、ぴたりと止まる。いくらホーム画面を押しても「充電しろ」のマークが出続けるiPhoneのように、動こうと踏ん張っても「警告」だけが頭の中で鳴り響く。それ以外は、無だ。虚無。何をどうしようとしても、頭も体も動かないのだ。何より、そこに何かしらの些細な感情さえ浮かんでこない。混乱を来した頭では客観的に現状を判断することもできないままに、無気力に横たわった体の上を、絶望的なほど長い時間が流れる。1日はひどく長く、同時に非常なほど短い。それが暗鬱とした時間をまた増加させる。

 もう戻れないかもしれない。何かしら別の形をとって人生を再出発させるしかないのかもしれない。あるいは、人生という形式を終わらせることすら頭をよぎった。追い詰められた、という表現はしっくりこないが、そういう人間の思考回路は通常時では理解し難い。理解し得ない。そこに、帰納的な思考は入り込む余地なく、絶望的な演繹だけが支配する。「無」や「空っぽ」だけがそこにある。「無」が「有る」という感覚は、人生で他に味わったいかなる感覚よりも奇妙で心地が悪く、それでいて自然に人間を占有する。

 先日、特に仕事に関係がない友人の家に泊まった。中学生からの旧知の仲である友人は、なんの見返りも求めずにぼくを泊めようとした。人との関わりを断ちたいぼくにとっては、半ば無理やりなくらい。しかしその無理やりのせいか、この数日で非常に救われたのだ。不思議なほどポジティブな気持ちが続き、たまに訪れる憂鬱も小さく、短くなっていっている。

 彼との会話は、至って無意味なものだ。何なら、空虚で無価値なものですらあった。やれ最近読んだ本で気づいたこと、やれこの前寝た女の子の話、やれ会社の上司の使えなさ、やれどこのコンビニのどのスイーツがうまいか、、、その話は、あまりにぼくの人生に意味も価値も与えない類の話題だった。そのはずだった。

 しかしそれは、確かにぼくの精神と魂を徐に回復させる効力を持った。一人小部屋に篭って文章を書く以上に、確かな効力を日々与える薬だった。無意味な話をして、ちょっと笑って、その無意味な笑いがなんだかくすぐったくて、それがまたぼくを朗らかにさせた。不思議だった。何か問題があれば、丁寧にその原因を突き止めて真摯に対処することのみが、問題を解決すると思っていたのだが、例外を自分自身と友人の中に見た。彼はただ、「話したいことを話して」ふつうに生きているだけだった。そして、それは何よりもぼくを勇気付け、励ました。どんな励ましの言葉にも嫌気が刺していたにも関わらず、「意味のなさ」によって確かに励まされている自分に気づいたのだった。

 「意味こそが人を救済する」というのは、一つの確固たる思想であった。それは今も揺るがずに存在する。実存的な問題に悩み続けた人生は、これからも続くだろう。世界から与えられた問いに対して丁寧に正しく答え続けることは、僕の中で揺るぎない一つの信念であり続けるだろう。しかし、「意味こそが」という部分は、検討の余地があるのかもしれない。意味も、アベンジャーズも救ってくれなかった精神に、その「意味のなさ」こそが暖かい陽光を照らしてくれているのだから。

 いかなる薬や慰めや励ましにも勝る「意味のなさ」が存在する。おそらく、意味を追求するあまりに世界における自分の座標を見失ってしまったあなたを、やさしく淡く掬い取ってくれるだろう。もし信じられないのなら、ぼくがその役割を買おう。「意味のなさ」を書いてみようと思う。

もしサポートをいただいたら、本か有料の記事、映画など狼だぬきの世界を豊かにしてくれるものに使わせていただきます。