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難関高校入試から考える現代社会入門③ 個性

はじめに

シリーズ3つ目の記事です。
今回は「個性」がテーマです。現代は、「個性的」であることが価値であり、その結果特に何も考えず「自分探し」に駆り立てられてしまう、ということがあり、それを煽るような自己啓発本がよく売れます。ではそもそも「個性」とは何なのでしょうか。あるいは、「個性」は探したら見つかるようなものなのでしょうか。

難関高校入試の出典情報

  • 2021年度 筑波大学附属駒場高校 (村田沙耶香「多様性って何だ? 気持ちよさという罪」)

  • 2021年度 西大和学園/2017年度 大阪星光学院 (平野啓一郎「私とは何か」)

  • 2013年度 桐朋高校 (姜尚中「続・悩む力」)

  • 2012年度 早稲田大学校等学院 (土井隆義 「『個性』を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える」)

  • 2017年度 開成高校 (村田沙耶香「コンビニ人間」)

本論

個性は相対的なもの

「自分探し」という言葉が一昔前に流行りました。「自分だけの何か」のような非常に曖昧なもの、そもそも存在するのかよくわからないものを探そう、という社会的な風潮です。「自分探し」をするとき、人は自分の内部にそれを求めます。しかし、ここに問題があるのです。個性はそもそも絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものなのです。他者と比べて初めて、自分の個性は見えてくるもので、自分の内部しか見ていない人には、個性など見つかるはずもなく、見つかったように思えても、それは「幻想」でしかありません。その幻想に取り憑かれて、「自分探し」を続けた結果、疲弊してしまい、皮肉なことに自分を失ってしまうのです。性格や得意不得意、その他の性質は基本的に他者と比べて明らかになるもの、つまり相対的なものなのです。
リリー・フランキーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』に、次のような表現があります。

個性という言葉の大好きな没個性の集団に最大級の軽蔑を抱いていたが、その連中と自分の違いはどこにも見つけることがなく、自己嫌悪と劣等感は消えることがない。

結局みんなが求めるから「個性」を求める、ということは、すなわち、「没個性」なのです。皮肉ことです。

この辺りは、前述の2013年度桐朋高校、2012年度早大学院の文章をぜひ参照してください。

求められているのは「常識の範囲内の個性」?

「個性を活かしなさい」「個性的になりなさい」このような言葉が聞かれるようになり、教育の現場でも使われるようになりました。しかし、ここで使われる「個性的」という言葉は、「自分たちの理解の範囲内で、自分たちが受け入れられる程度の個性」という意味であることが多く見られます。多様性の回でも述べましたが、結局は自分が受け入れられるものだけを求め、そうでないもの、つまり、自分の理解を超えるレベルの個性は、排除の対象なのです。これを村田沙耶香さんは「気持ちのよい個性」「気持ちの悪い個性」と説明しています。前者は、自分の理解の範囲内のもの、後者は、自分の理解を超えた排除の対象というものだと述べられています。多様性を尊重し、本当の意味ですべての個性を認められる社会を実現するには、「気持ちの悪い個性」も受け入れなければならないのです。
この辺りは、2021筑駒、2017開成をぜひ解いてみてください。
2017開成の「コンビニ人間」は、「普通ではない」と言われ続けてきた主人公が、コンビニバイトで他者を真似することで「普通」であると振る舞う様子が描かれています。これは作者である村田沙耶香さんの幼少期の体験が反映されているようで、それが述べられているのが2021筑駒の文章です。ぜひ読んでみて(できれば問題も解いて)ください。

参考図書


2021筑駒の文章はこちらに収録されています。(ちなみに表題の「信仰」が個人的におすすめです。)






終わりに

「個性」や「多様性」、「普通」のように、実態がつかめず、なんだかよく分からないけど使われている言葉はたくさんあります。こういった言葉は、意味と真偽を考えた上で、周りに(特に社会の風潮に)流されずに、使うかどうかも含めて判断しないといけないのではないか、と感じます。難関高校入試の問題は、現代社会の一見当たり前で正しく見える事柄に対して、立ち止まって考えるきっかけを与えてくれます。私たちが、広い視野を持ち、表面的な事柄に惑わされず生きる上で、それはとても大切なことのように思えます。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。他にも色々と記事を書いていますので、ぜひご覧ください。

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