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後楽園の体育館で向き合ってくれていたのは校長先生だった

弱小男子バレーボール部の顧問は校長先生だった。

私は中学生の頃、男子バレーボール部に所属していた。ただ、私が入学したのと入れ違いで顧問の先生が異動(しかも不祥事)となり、衰退の鐘が鳴った。そして、大昔にバレー部で指導経験もある校長先生が顧問に就任したのだ。

校長先生の指導が悪かったのではなく、顧問が校長という立場だったのが問題だった。校長先生はほとんど練習に来ることができず、校長室を突撃すると、誰かと話していたり、書類を書いていたりして忙しそうだった。そして、「ちゃんとノックしろよ!」とやんわり怒られた。当たり前だ。でも校長先生はジャムおじさんみたいな人で、いつもニコニコしながら、「練習にいけるときは必ず行くから待って」と言ってくれていた。


顧問不在のチームはどんどん弱くなっていった。理由の一つ目として、部員たちの運動神経が基本的には悪かったことが挙げられる。部員のほとんどが、部活に入っていないところを顧問に声をかけられて入部した人ばかりで、小学校のころから運動が苦手だったと口を揃える。そして、顧問から教えてもらえることがなくなったので、全く上達しないのである。

そして二つ目。サボることはしないが、基本的にバレーボールへのやる気がないので、いかにサーブを曲げるかとか、ボールを床に叩きつけてどこまで跳ね返るかみたいな、よくわからない実験が始まるのだ。部員のほとんどが割と頭が良かったので、その人たちが持っている独特の探究心が影響していたのではないかと思う。小学校で6年間野球をやり、中学からバレーを本気でやるぞ!みたいなことを考えていた私にとって、ちょっとした地獄だった。(先輩たちのことは好きだったけど)

そんな私が中学1年の4月にレギュラーを掴み取ったのが、後楽園にある中学校でおこなわれた練習試合でだった。校長先生から「次出られるように準備して」と言われ、何のポジションで出るかもわからない私は、とりあえず何回かジャンプした。そして、校長に呼ばれてよくもわからずコートに入った。そこから私のバレーボール人生はスタートした。

バレーボール人生のスタートは散々だった。全く勝てないし、部員の人たちと熱量が合わないし、自分が最高学年になるときには部員が試合に出るための人数を下回った。

そして何度も校長先生のもとに通った。「頼むから練習に来てください」「このままバレーボールがうまくならないのは嫌です」と。でも校長先生は汗を浮かべながら、行けるときは行くからと繰り返した。そして、突然練習試合だけが組まれ、その時だけ校長先生は来てくれるのだった。

今ならわかる。貴重な土日をうるさい生徒一人のために潰して、練習試合を組んでくれるありがたみが。ただ、当時はそのことをわからず、練習試合では弱さを色々な中学に見られるだけだと思って恥ずかしさが募った。思春期も重なり、毎回毎回負けることに苛立っていた。

「坂本!そんな適当にバレーボールをやっちゃだめだぞ」
「先生こそ練習来てくれないのに!うまくなれないのは仕方ないじゃないですか!」

もしかしたら、教師というのはそこで弱気な面を見せてはいけないのかもしれない。しかし、校長先生は私の声を受け少し弱気な顔を見せてから、「でもな、バレーボールはな」と説得を試みてくることが多かった。そして、練習試合の合間の時間に、自分よりも周りのあまりうまくない同級生たちの練習に取り掛かり、時間が来たらじっと練習試合を見守るというのを繰り返していた。


中学3年になって、バレーボールをしっかりと教えられる先生がきた。その先生は指導も上手で、しかも自分でプレーを見せてくれることもあった。怖い先生ではあったが、チームのレベルをすぐに察知して、「いけー!!!坂本!!!!」とスパイク打つ時に私に声をかけて盛り上げてくれるのだった。

それが道化だというのもなんとなくわかっていた。だけど、チームを盛り上げるためにやってくれていることもわかったから、とにかくその先生と二人三脚で練習も試合も踏ん張った。

そして引退試合。いつも通り全敗だった。しかし、いつもと違ったのは1セットだけ取ることができたことだ。全くうまくはなっていないけど、バレーボールの形だけを覚えた私たちのチームは、少しだけ多く点を取れるようになっていた。

負けが確定して私はわんさか泣いた。バレーボールをすることがとにかく辛かった。もっとできるはずなのに、もっとうまくなれたはずなのに、そしてこんなチームでやっているのが恥ずかしいという思いだ。

でも、それらの呪詛にも似た気持ちの次に思い浮かぶのは、わがままだった自分になんとかついてこようとしてくれた同級生だったり、二人三脚で練習に付き合ってくれた先生だったり。そして何より、不貞腐れていた自分にいつも手を差し伸べてくれた校長先生にだった。校長先生は引退試合こそ見に来てくれなかったが、ある日僕らを自宅に招き、奥さんの手料理を振る舞ってくれた。それがとにかく楽しくて、幸せだったのを覚えている。あの麻婆豆腐はめちゃくちゃ美味しかった。

後になって、バレーボールを教えられる先生が来たのは、校長先生の一声があったからだと耳にした。いつもいつも校長室を訪れ、後楽園の体育館であーでもない、こーでもないとイライラしていた私に付き合ってくれた校長先生がくれたプレゼントだったのだ。

私が中学を卒業して、バレーボールを教えられる先生はすぐに異動し、校長先生は教育委員会のお偉いさんになった。ある日、駅ですれ違ったときに声をかけたら、またあのニコニコとした表情で挨拶をしてくれた。「先生、僕は高校で関東大会に行けたんですよ」と報告すると、「そうか〜」とむにむにしたジャムおじさんみたいな手で握手をしてくれた。

私は今でもバレーボールが好きだ。いや、大好きだ。人に教えることをバイトで始め、全日本や高校生のプレーを見てはあーだこーだ言って、高校の部活の同級生ともバレーボールの話をする。私の人生の核をなす一部になっているのだ。

校長先生が後楽園の体育館で私に向き合ってくれたから。今の私がある。



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