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約3時間で変わる風景、深まる関係

あんまり話したくないことを言おう。

6月に弊社TENGのサテライトとしての事務所を借り、東京と鳥取を行き来してはじめて、4ヶ月が過ぎた。毎月1週間ほどを都内で過ごし、残りを大山で過ごしている。

「鳥取だからむっちゃ辺鄙なところにあるんでしょ?」

鳥取と島根の区別もつかない人からすれば当然のように出てくる疑問かもしれないが、実はそんなこともなく、大山の隣町にある米子空港までは電車で1時間ほど(車なら40分)、米子〜羽田空港間はなんと1時間半もかからずで、3時間内でその行き来ができてしまう。県内移動だけでも3~4時間かかる田舎もあるくらいなので、そういう意味では、国立公園があり自然に溢れる暮らしやすい(生産的になれる)大山は、意外と近い田舎なのだ。

が、大山が「意外と近い田舎」というのはあまり人には言いたくない話である。なぜかといえば、個人的に「アクセスがいいから行く」という姿勢の人が苦手だからである。だから、この5年間ずっと「辺鄙なところに〜」「むっちゃ遠いよ」と嘘をつき、来なくていいよ感をアピールしまくっていた。

そんな「辺鄙ところだけど」「大山ってどんなところかわからないけど」でもわざわざ足を運んでくれる知人はたくさんいて、コロナ禍に入る前には毎月1~2組くらい住み開きしているわが家「な◯」に泊まっていった。コロナ禍でも「ワーケーション」企画を通じて1~3週間ほど滞在してくれた組も多く、なんだか“物理的距離/立地”というのは大事なようで大事ではないようだ。今は、ウィズコロナに適応してきたわが町・大山ということもあり、少しずつまたな◯への来客が増えている(この秋はとある企画でもっと増えるはず)。

むしろ物理的フィルターがへんな/ミーハーな人を遠ざけてくれる。20代中盤、小豆島に3ヶ月だけ住んでいたことがある。そのとき、人がわんさか集まる元地域おこし協力隊員の家に居候していたのだが、大学生から社会人まで船で渡ってくる人たちの個性は凄まじかった。「海を渡る」という物理的フィルターがかかることで絞られてるペルソナ。ある種、アンテナの張り方がちょっと違うよね、という人が集まっていたようにも思う。

また、辺鄙なところで暮らすからこそ、遠路はるばる来てくれる人との関係性を確かめられたりもできるのだ。

「便利だから」で乗っかる人は、そもそも田舎には向いていない。「不便だからいい」「足りないことを面白がれる」のほうが向いている。ぼくにはそういう感覚とてつもなくあるから、成熟された田舎の便利さを消費しようとする輩はやっぱり苦手だし、GET AWAY! と追い払いたく気持ちはつねづね持っている。めんどうくさいやつなのはごめんなさいなのだけども。

とにもかくも、鳥取大山はじつは東京(関西、四国、広島あたりもそうかも)と行き来しやすいローカルであることを、今回は苦しいけど言ってみることにした。

そうそう、大山にいるときは26戸ほどがある集落に住んでて、ほぼ人に会わないひっそりとした場所なんだけど、都内入りした9月27日にはたまたま半蔵門で打ち合わせがあり、突如「国葬」イベントの大行列に巻き込まれた。3時間ちょっとで、とりわけなんでもない地から、予期せずメディアのど真ん中に放り込まれてしまったのだ。このギャップ、ちゃんとおもしろかった。

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