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その地域の眼鏡屋さんでありたい


つねづね、そんなことを考えている。

地域の内と外、異業種、多世代、行政と民間、のようにいろんな人や組織の間に緩衝材のように入って場や事を整える“コーディネーター”的な役割を、大山町で担うことが多くなってきた。まぁ5年近くいれば意図してなくても不思議とそうなるもんなのかもしれない。

東京に居たとき、また今も行き来する中で感じるのは、基本的に「“同質”を扱うコミュニティが多いよなぁ」ということ。似たような嗜好・思考が集まるための場があり、それで成り立つビジネスがある。たとえば、“同人”文化は都会だからこそ醸成されてきたものだろう。最少人口約56万人の鳥取、そして最多人口約1400万の東京、この二つを行き来しながら比較できる面白さを絶えず感じる。

大山のような「田舎あるある」として言えるのは、小さいコミュニティの中にさまざまな“違う”が混ざり合っていることである。異業種交流をしようとしなくても、農家からクリエーターまでが近所圏内に住んでいて、行事などの半強制的なばで交差する。ぼくは運営拠点で小学生からリタイア後のおばあちゃんまでと日々やり取りするなか、それぞれの“違う”から生まれる凸凹を平らにしたり、翻訳して言い換えたり、逆に凸凹を生かすための企画を考えたりして、場とそこで起こりうる不和を防ぐように取り組んでいる。

そんな日々を繰り返していると、ふと思うのが、表題のことである。

「同じ地域に居合せていても、立場(背景)によって見え方がまるで違う。その視点を眼鏡を掛けるようにひょいと交換できないだろうか」

ちょっとした会話で見つかる「ためしてみたい(好奇心)」に「困った(ストレス)」に対して、「この(視点の)眼鏡を掛けてみませんか」とお薦めできるように。

数年前に近しいことを書いていたが、自分にとっての日常と非日常(新たな視点で見える地域)を行き来できれば、見直せるものが増える。これは、堅苦しい言葉をあえて使えば「シビックプライド」の醸成につなげていくために必要なプロセスだろう。

「まち歩き」という企画があるが、これは新たなまちの面白がり方を提供する人がいて成立しやすい散歩である。よくあるのは「歴史」視点のまち歩き。次にあるのは、「空き家活用」「リノベーション」絡みのまち歩き。それぞれ普段なら何も知らずに通りすぎるような場所もカラーバス効果のように「この石像は〜」「この建物の屋根の造りは〜」と注目ポイントを絞って紹介してくれるので、凝視するようにまちを眺める機会になる。そう、「見る」というより「視る」ための眼鏡を提供しやすいのが「まち歩き」である。そこに地域の人と、外からきた人が混ざり合うとさらに良い。

また、「レジデンス」企画も眼鏡をかけてもらえる機会づくりにはいい。大山であれば「イトナミダイセン」のような「アーティスト・イン・レジデンス」としてさまざまな作家が地域滞在しながら作品づくりやワークショップを通じて住民との交流を行なっている。ぼく自身は過去に「ライター・イン・レジデンス」「カフェ・イン・レジデンス」という企画を行ったが、ライターが掘り下げたい地域の取り組み、間借りでカフェしたい人が入手したい地域食材や利用スペースはやはり独特だった。

少しばかり例に挙げた「散歩」「作品(ワークショップ)」「文章」「カフェ」という眼鏡があれば、ある種、目の前にある世界からドラマチックに異界に飛ぶことができる。日常が非日常化する瞬間とも言えるかもしれない。

そんなこともあって、「まちまち」というメディアが立ち上がるときにひどく共感したし、悔しくもあったのを覚えている。コンセプトとか、まさに、これ!というやつで。


そうは言っても、ぼくは「メディア」という眼鏡を持つほどの器量はなく、まちのコーディネーター(的役割)として、眼鏡屋を開くしか方法はない。地域のなかで「企画」として眼鏡づくりをしたり、作品なり記事なり食事なりで他の人がつくってる眼鏡を入荷して、店の棚に並べるくらいであればできそうだ。

そんなあんばいで、地域の眼鏡屋さんでありたい。

この記事は、キテレツ大百科の勉三さんみたいな眼鏡かけてるやつが書きました。



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