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溺れるものも久しからず

スタバよりはタリーズ、タリーズよりは上島珈琲という体になってしまっている、夏、34歳。もちろん店舗にもよるのだけど、よりゆったりと密度の低いテーブルを広く使える空間で、と考えると不思議と上島珈琲の利用頻度が増えていた。ちなみに、赤坂のOMO 1F併設の上島珈琲が一番好きかもしれない。しかし現実には武蔵境のそれにモーニングで通いがち。

さてさて、最近よく心に留めてることがある。それが「小さな一つひとつをちゃんとリフレクションする」である。

「リフレクション」をぼくなりの言葉でまとめさせてもらうと、「物事を捉え直すための、未来に向けたふり返り」である。

ぼく自身「リフレクション」という言葉を意識するようになったのは、今年に入って教育関係者とのやり取りが増えたからだが、その行為/現象の扱いは古くブログや場づくりを通じてしていたように思う。ただ、その対象として扱うものが、ここ数年はややわかりやすく大きいものが多くなっていた。ハレの日のイベント的なものだけではなく、ケの日の些細なことをどうふり返っていけるか。その日常を細かく解剖する意識に欠けていたのだ。

だからこそ、「小さな一つひとつ」であり、たとえば、日々の中にある「銭湯に行った」「〇〇で昼食をとった」「□□〜△△間を電車移動した」「映画を観た」「ポッドキャストを聴いた」などについて5分でもいいから、ふり返って、箇条書き程度にでもメモしておく。

忘却で消え去っていくもの、そしてその中でも記憶に残るものの美しさは認めつつも、忘却に抗い、その記録のおかげで体内に留まり続け、熟成されていく逞しさがある。その小さな一つひとつを、一歩踏み込んで深くふり返ることで、世の中の見え方がちょっと変わることはいくらだってある。

情報に流されに流される時代だからこそ、流され続けるだけでなく、時にふんばり足を止め、時には腰を下ろせるような下ろしてみて、自分の行く先々へのヒントを探る。溺れちゃヤーよ。

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