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おとしもの。

空を見上げながら歩くのが好きだ。
空模様を見上げるのが好きな人は多いと思う。

視界の2/3位が空で占められるような田舎で育ってきたから、上京してきた頃は視界の1/3にも満たない空の割合に、少しの息苦しさを感じていた。

だが、大きな建物たちの影に縁取られた小さな空も、「瞬間」が切り抜かれたようで、それはそれでとても美しい。縦に細長い夏の青空とかはちょっとしたギャラリーの作品みたいだ。

同じくらいに、地面を見ながら歩くのも好きだ。
100円落ちてないかしら、なんて思いながら。

100円はなかなかないけれど、都会の地面には「!」となるものが落ちていたり、書かれていたりしておもしろい。

小さな子どものおクツが片方だけ落ちてたりすると「あらたいへん…!」なんて思いながらも、ちょっとほっこりもしてしまう。マジックテープがついていて、手のひらに乗るサイズ。黄色とか赤色とかでコロンしたフォルム。

落とし主はなんのこっちゃないけれど、落とし主のお母さんは「ええー?」と困っているんだろうな…。

と勝手に想像している。
片方だけのおクツは、その後どうなるんだろう。
考えると切ない。



「あ」

白くて薄い紙袋に入った、レーズンパン(半斤)が落ちている。近くのパン屋さんのもので、私も好きなレーズンパンだ。

自転車の後ろのカゴに積んだとかで、バウンドしたはずみで転げ落ちちゃった、とかかな…。横目に素通りは心苦しく、思わず拾い上げてしまった。

まだちょっとだけ温かいレーズンパンから、ほわーんとあまい香りが昇ってきた。
そこで「しまった」と気が付く。

拾ったレーズンパンをこのまま持ち去ったら、私は「パンどろぼう」になる。捨てるくらいなら美味しく頂く覚悟はあるけれど、このレーズンパンは落とし物だ。

扱いに困るからと言って、その場にそっと置き戻すと、そのシーンだけ見た人に不審がられてしまう。「あの、パンお忘れですよ」なんて声かけられたら「あ、すいません!」なんて言ってヘコヘコ受け取ってしまう。

忍びなかったから、とはいえ「責任」が生じてしまっている。
駅前の交番に…持っていく?「あのー、パンを拾いまして…」と?子どもが届けるなら可愛いが、もうすっかりな大人はどうだろう。

「ああどうしよう」
絶えず昇ってくるあまい香りに誘惑される。パンどろぼうに、なってしまおうか…ごくり。

「飲食物 拾った」で検索したら、グーグルくんは答えてくれるのだろうか。
とはいえ、このまま落とし主が戻ってくるまで、ここで佇んでいる訳にもいかず。


レーズンパンを小脇に抱えながら道を進む。パン屋さんを背にして進んでいるカタチになるから、きっと落とし主も同じ方向に進んだのではないかな、なんて推理する。けれど、今落とし主が現れても、結果「パンどろぼう」なのでは…とドキドキしてくる。


交番かなぁ…、と恥ずかしさなのか、なんともいえない気持ちをムクムクとさせながら歩くと、郵便局の前で手押しのカートを引いたおばあさんがキョロキョロとしていた。手押しカートの蓋は開いていて、スーパーの袋やお野菜が覗いている。

直感的に「この人だ!」と思った。

レーズンパンの紙袋を掲げながら、手を振ってみる。
「あの!パン…落としてませんか!?」

直感そのまま、レーズンパンの落とし主であった。
何度も「ありがとうございます」とお礼を言われ、お礼に、とお金を渡されそうになったので、アタフタと固辞して先を急いでいる風を装いその場を去った。

無事に手元に届けることができて、よかった。
こんなこともあるんだ…。
今年いちばん良いことしたと思う。

「パン…落としてませんか!?」
なんて、この先絶対いうことないだろう。
一人笑いが漏れそうになった。

空を見上げながら、地面を見つめながら、
たぶん私はいつもキョロキョロとしてしているのだろう。
道迷いの天才なのは、そういう習性からなのだろう。

スマホばっかり見つめて歩いてしまうこともあるけれど、色んなストーリーを含んだ要素は街のあちこちに点在している。

「パンどろぼう」みたいなことはそうそうないけれど、そういうストーリーになるものを、小さく見つけられる人でいたいな、と思う。



-20221220-
今日は弟のたんじょうび。










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