「特性」についての考察~ASD当事者の立場から

 今回は「特性」について、ASD当事者の1人として日頃考えていることを綴ってみたいと思います。ただ、全てのASD当事者がそう考えているわけではないということはお断りしておきます。
 実は、私はASD(旧:アスペルガー症候群)の特性と呼ばれる事柄からは距離を取って見ています。この特性というのは健常者という上の立場の方々からの見方だからです。例えば、ASDの特性においては「社会性がない(あるいは乏しい)」とか「空気が読めない」「人の気持ちが想像できない」等と説明されますが、この「社会性」と「空気」「人の気持ち」の決定権は健常者側にあることは明確です。しかもこれらは言語化されていない、非言語的であることが少なくありません。ではなぜ、言語化できない(しない)のでしょうか。「そのぐらい言われなくても分かる(でないと困る)」からでしょう。だから、理解できないASD当事者に対して上記のような「特性」と理解(誤解と言えるかも)してしまうのです。ただ違う視点から見ると、「分かるなら説明できるはずなので、理解できるよう具体的に言語化してください」と要求したくなります。健常者が決定権を持つということはASD当事者より上の立場ですから、前者が後者を対等にするためにそれだけの責任が発生するということになります。
 「説明できるなら言語化できるはず」と要求するとは何様かと憤る健常者もいるでしょう。しかし、長期的に見れば、説明できないことでASD当事者が社会から排除される可能性も否定できないのです。そうなれば、社会は停滞が続くだけでしょう。健常者だけが社会を構成すればいいのではなく、ASD等の障害者もいてこその社会だからです。なので、健常者側が言語化できるということは、ASD当事者のみならず、自分たちの言動を振り返る意味で健常者にもメリットがあると言えます。厳しい言い方ですが、健常者の方には高学歴が多いと思いますから、言語化することは問題ではないと思います。
 そこで上記の3つの特性を少し深めていきましょう。
 まず「社会性がない(あるいは乏しい)」についてですが、社会性とはどんな時に言われるでしょうか。誰かが社会の常識や価値観等に合っていない言動があった時でしょう。その時に「常識だから」「そうなっているから」等と言っていませんか。では、その「常識」「そうなっている」とは何か、なぜそれらを必要とするのでしょうか。
 次に「空気が読めない」についてですが、空気は吸うものであって読むものではありません。なので、空気とは何か、どんな理由や事情があってそれが成立するのでしょうか。
 そして「人の気持ち」について。それは誰の気持ちを考えるのでしょうか。それを考えると誰にとって有利になるのでしょうか。ASD当事者に有益な形で返ってくるでしょうか。そうならばどのような形になるでしょうか。
 このようなことを考えずに「特性」と理解してしまうことはASD当事者を傷つけることになりかねません。健常者側が決定権を持っているのですから、上記の問いに関して言語化できることは1つの責任になります。そこまでやって初めて、ASD当事者と対等な関係になると言えます。
 今回はASD当事者について考察してみましたが、似たようなことを他の障害者にも応用できるだろうと考えています。
 ここまで読んでいただいた方に深く感謝申し上げます。


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