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おっさんとは「想像力を失った人」のこと

やる気あり美」の太田尚樹くんと、編み物作家でLIFE KNIT理事の横山起也さんと、この秋に成蹊高校で行うダイバーシティについてのトークイベントの打ち合わせに。

会話の途中、太田くんが「"おっさん"とは想像力を失った人のことだと思うねん」と言った。

「相手がどうしたら気持ちよく過ごせるかとか、自分とは背景の異なる種類の人間がどんな風に生きているか、何を思うかについて考えるだけの想像力と、”わからない”相手に出会った時、対話して理解しようとする余地。それを失った人間は、男だろうと女だろうと若かろうと老いていようと"おっさん"やねん」(意訳)

この定義はさすがだ。

確か、この前炎上した私の現代ビジネスの記事「ゲイがいてもいいけど、好かれたらキモい」発言にキレた話」について話が及んだ時のことだった。

この記事には600件以上のはてなブックマークがつき、軽く炎上していたが、そのうちの批判的なコメントのほとんどが
「キモいものをキモいって言って何が悪いの?」という、ほぼタイトルしか読まずにコメントをしているようなものか、
もしくは
「”おっさんキモい”って若い女が言うのは許されるくせに、おっさんがゲイキモいって言うのは許されないのか」と言う、”おっさん”当事者からのコメント、この2種類しかなかった。
ダイバーシティのあり方についての意見はほとんどと言っていいほど無かった。

まず最初の批判については、くだらなすぎてもやは何も言う気すらないのだが、私は記事の中で「おじさんがゲイをキモい」と言ったことについて怒っているのではない。
80人いる会場で、そのうち5ー6人は性的少数派であることを慮らずに、聞かれてもいないのにトークの文脈を無視してそんなことを堂々と嬉しそうに話してしまうことについて、そのエチケットのなさについて私は怒ったのだ。怒ったのは悪手だったかもしれないが、ともかく、私は彼にその事に気づいて欲しかった。
勝手に心の内側で思っているのは勝手だが、それが他者を傷つけるかもしれないことについて微塵も配慮をする姿勢がないと言う点において、この人は私にとってまさに「おっさん」だった。

第二の指摘については、私は中高年男性を「キモい」と思ったことがあまりない。私の周りに「キモいおっさん」があまりいないせいかもしれない。みんな優しいしジェントルマンだ。もちろん、”キモいおっさん”は確かにこの世に存在するのかもしれないのだが、おじさん全般を指して「キモい」と思ったことがない。

仮に、

「気持ち悪い中高年男性=おっさん」
「気持ち悪くない中高年男性=おじさん」だとするならば、

おじさんとおっさんを分けるのは確かに太田くんの言う通り、「想像力」だと思う。

その定義からすれば、私の記事に「”おっさんキモい”って若い女が言うのは許されるくせに、おっさんがゲイキモいって言うのは許されないのか」と言うどうしようもないコメントをしているのは確かに「おっさん」である。

「”おっさんキモい”って若い女が言うのは許される」と言うのがまず、決めつけである。
誰もそんなこと言ってない。
Twitterでも書いたが、最初、私は「好みじゃない男性から好かれた時に気持ち悪いと言って断る女もまたいい女じゃないね」という一文を第一稿の時点では入れていた。しかし、そんなの当たり前すぎて言う必要もないと思って削ったのだ。

男女の差なんかない。相手を過剰に傷つける断り方をする人は品がないし、女だろうと男だろうとどんな性だろうと、自らの経験によってしか物事を価値判断できない人間、世界の見方が固着したは全て「おっさん」である。
もしくは「自らのおっさん性」に警戒することをやめた人間である。
その意味では杉田水脈とかまさに「おっさん」だと思う。

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