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替馬壇の由来【岩手の伝説㉓】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

※替馬壇・・・かえまだん。俗称キャマダ。


平泉に拠って、四囲(しい)を睥睨していた安倍貞任(あべのさだとう)を攻落した八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、晩秋の風に吹きさられるる木の葉のように逃ぐる安倍氏の軍勢を追って、森(御殿場)まで来ると、愛馬香月の手綱を静かに引いて留めました。

※拠る・・・よる。あてにしてそれにたよる。 たよってそこに落ち着く。

※睥睨・・・へいげい。にらみつけて勢いを示すこと。


義家の眼前には、船戸(ふなど)の森の上から、柔らかな頂上をのぞかせて横たわる三分森が、うっすらと姿を見せているのでありました。

※三分森・・・おそらく見分森(みわけもり)のこと。

義家は鎧の金具の音を涼しく響かせながら、ひらりと愛馬香月から身軽く飛び降りると、

「弓!」

と、家来を顧みました。

平伏していた家来は、

「ハッ!」

という応答とともに、敏捷にそこを離れると、黒塗りの大弓を恭しく捧げて参りました。

それを受け取った義家は、丁寧に大弓のすべてを見回していましたが、静かに頷くと、背の矢を一本抜いてつがえました。

瞑想が数分続きました。

家来一同はその所作に、固唾を呑んで見つめておりました。

蟻の這う音も聞えそうな、静かな一瞬でありました。

満身の力を込めて引いた弦から、矢は放たれました。

快音を引いて矢は、一同の視線に追われながら、三分森目掛けて飛んでゆきました。

矢は完全に三分森の山頂に突き刺さりました。

呆然としてそれを見送っていた家来たちは、我に返って惜しみない拍手を送りました。

万雷のような拍手の音は、あたりの森々にこだましました。

義家はニッコリと微笑むと、愛馬香月に跨ると、高々と采配を振りました。

※采配・・・さいはい。戦場で大将が手に持ち、軍兵を指揮するために振った道具。

藪や草に伏していた家来たちは立ち上がって、義家の後に続きました。

その道は三分森を中に、佐倉河の高山掃部(かもん)長者屋敷へと続いておりました。

義家はこうした占いに似た行為を好みました。

即ち、弓矢によって前進の可能を決めていたようであります。


勇躍、狐森を出発して間もなく、義家は愛馬香月の不調に気が付きました。

※勇躍・・・ゆうやく。勇みたつこと。

首を深く垂れて元気がなく、歩幅にも乱れが見えました。

それが船戸の西北の地まで来た時は、一層ひどいものになりました。

義家は素早く馬から降りると、馬の額に手を当ててみました。

額は汗ばんでいて、大変な熱でありました。

それのみか、呼吸も荒々しく、立っていられない程よろめきました。

義家はびっくりして、

「誰か医術の心得のある者がいないか。」

と呼びかけました。

それに応えるように傍の武士も、

「誰か、誰か」

と叫び歩きましたが、誰も出てくる者はありませんでした。

義家は、傍の千草を一握りちぎり切って、馬の口元に持っていきましたが、馬は振り向きもしませんでした。

※千草・・・ちぐさ。いろいろの種類の草。

(以下、資料破損のため省略)


【公式解説文、現地の看板より】

前九年合戦(永承六年、1051年)の際、八幡太郎義家が、安倍貞任を追って、船戸の西北の地に来た時、愛馬香月は連戦の疲れからか、遂にこの地に倒れた。

※前九年合戦・・・前九年の役(ぜんくねんのえき)。平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦い。源頼義・義家親子が、陸奥の豪族、安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子を鎮圧した。


近隣の民が気の毒に思い、換馬(かえうま)を奉り、丁重に葬り、径三間余りの塚に堀をめぐらし、弔いました。

※おそらく直径5.5メートルくらい。

後に、そこは壇山(だんやま)と呼ばれる山林となり、牛馬の埋葬地となりました。

昭和40年代、耕地整理の際、試掘調査され、すでに盗掘を受け、何も検出できませんでした。

換馬壇は、元、佐々家中、佐藤家の屋号となっています。

※屋号・・・やごう。屋号、家号とは、一門・一家の特徴を基に家に付けられる称号のこと。佐々家の家来の佐藤家ということか?

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