見出し画像

◆読書日記.《『図説・厠まんだら』(伊奈ギャラリー)》

<2023年4月18日>

 『図説・厠まんだら【INA BOOKLET Vol.4 №1】』(1984年、伊奈ギャラリー)読了。

 ぼくの行きつけの古本屋には、しばしばこの伊奈ギャラリーという所から出されている「INA BOOKLET」のシリーズが置いてある。
 このシリーズは伊奈ギャラリーで開催された展示会に併せて出版される公式図録的な出版物なのだそうだ。

 しかし、失礼ながら「伊奈ギャラリー」というのは今まで聞いた事がなかったな?と思ったので以前調べてみたら、この名称は過去のもので、「伊奈ギャラリー」から「INAXギャラリー」、そして「LIXILギャラリー」と名称変更なされていたものだという事が分かった。

LIXILギャラリー

 この伊奈ギャラリーが出来たのは1981年、伊奈製陶が銀座のショールームを作る際に文化施設として開設したものだという。以後、数々の展示会を行い、2020年に活動を終了してしまったのだそうだ。
 終了する前に、一度行って施設や展示内容を見て見たかったものである。

 ここの開催する企画展は非常にユニークなものが多く、ぼくはしばしばこの「INA BOOKLET」のシリーズが古本屋に置いてあったら購入して、楽しく読ませてもらっている。

 例えば1986年の「大工彫刻――社寺装飾のフォークロア」展は日本建築の中でも、社寺に施される大工仕事の彫刻装飾に注目するという視点が面白かった。

「大工彫刻――社寺装飾のフォークロア」

 その他にも1983年「装飾の復権――建築のテラコッタ」展は、建築材料として使われていた素焼きの陶器――「テラコッタ」についてまとめた展示会であった。
 テラコッタが日本で流行したのは関東大震災から第二次大戦までの、わずか約二十年間という短い期間であったという。
 関東地方の建物が倒壊し、復興に際して様々な洋風建築が建てられた時にこれらテラコッタ装飾がその外装を彩ったのだ。
 今も日比谷公会堂や国会議事堂など古くからある建物にはこのテラコッタは残っており、残された資料を踏まえてこの装飾様式を見てみようというのがこの展示内容であったようだ。

「装飾の復権――建築のテラコッタ」

「INAXギャラリー」時代の企画展「不思議建築のレントゲン 欲望の巨大装置」展も、ぼくのたいへん好きな内容であった。
 都市に見られる「珍しい建築」の数々――例えばロンドンを高潮の被害から守る建築物「テームズ・バリア」であったり、1444年中世ヨーロッパの街に作られ、現存する最古のクレーン施設「グダニスクのクレーン」など、そういった建築物の内部構造がどうなっているのか、断面図や透視図を交えて説明していくという内容。
 これは解説文をもっと分かり易くすれば少年少女雑誌のグラビアなんかに載せられていてもおかしくないような、何とも素朴な知的好奇心をくすぐられる内容となっていて、これもぼくが偏愛する一冊となっている。

「不思議建築のレントゲン 欲望の巨大装置」

 そして、そんな伊奈ギャラリーが1984年に開催した企画展示「厠まんだら――日本トイレット文化史」展のブックレットが本書と言う訳である。

◆◆◆

 本書の内容を簡単に言えば「図を豊富に掲載した日本トイレット文化史」である。※と言う事で、この手のキタナイお話が苦手な方、もしくはお食事前後の方は以下、お読みになる際はご注意のほどを。

 トイレの文化史やトイレ雑学といった読み物は昨今けっこう見かけるが、本書の場合は図録が非常に豊富なのがその特徴であろう。

 明治・大正時代に作られた陶器製の便器の数々や江戸時代から明治時代にかけて作られていた陶器製の尿瓶、桂離宮の厠などがグラビアページに掲載されている。
 また、江戸時代に書かれた読み物に記録されている庶民のトイレ事情や日本全国に取材した古い民家のトイレの写真など図版は豊富である。

明治・大正時代の陶器製便器(本書グラビアページより)

 しかし、ぼくとしては本書の中では歴史学者の李家正文(便所の歴史の研究でも知られた人だ)による日本のトイレ文化の通史が最も面白かった。
 先日、原田信男『日本人はなにを食べてきたか』の記事で日本の食生活の通史を紹介したが、本書では図らずとも『日本人はなにを食べてきたか』と表裏をなすような文化史を学ぶ形となったのである。

 特に、李家正文による「考えてみると、いま人の屍体を始末するとき、水葬、土葬、火葬、風葬(鳥葬)の四つがある。それと同じように、糞尿もまたこの方法による処理が行われていた。すべて自然と風土との地理的影響によってである」という指摘は目からウロコが落ちる思いであった。

 確かに、こういった風土と文化の関係性というのは世界のあらゆるスタイルを決めている(服や建築、お風呂なんかもその内の一つだ)ので、トイレについても同じように考えられるというのは理解できるが、それが葬送のスタイルと相似性があるというのは盲点だった。
 糞尿も死体も、多くの文化では「穢れ」とされているものだから、埋葬と糞尿の処理の考え方も近いものになったのだろう。

 原田信男『日本人はなにを食べてきたか』を紹介した時、古代から日本人が「血の穢れ」として扱ったものには「死穢・産穢・食穢」の三つがあると言った。

 これらは自分たちの生活空間を「血の穢れ」で汚染させないために、生活空間である「母屋」から離れた場所で、それぞれの処理を行った。

 古代、日本では葬式まで遺骸を安置しておく場所や、喪に服す際に使う、母屋とは別の場所として「喪屋」というのがあった。
 また、出産に伴う穢れを忌んで、妊婦が生活空間とは別の場所に小屋を作って生活をする「産屋」というものもあった。
「食穢」というのは、獣を絞める事で「血の穢れ」となるからあるもので、屠殺場などは自分たちの生活空間とは離れた場所に作られた。

 こういった「穢れ」の発生する場所は「母屋」から離され、「喪屋」「産屋」と同じように「川屋=厠(かわや)」となったのが日本の古代のトイレであったわけである。
 つまりは、かつてウンチやオシッコも日本では「穢れ」の一種だったのだ。

 因みに「厠」が「川屋」なのは、古代のトイレが川の上に建てられて川に流すタイプのものだったからである。
(また、おトイレは日本では「忌み物」だったから、直接「ウンチする所」という名前にはならなかった。川辺に突き出させた板場によって水葬にされたから「川屋=川にある場所=かわや」となった。忌み物だから遠回しに「場所」だけを示す名前で何をする所なのかは明言しない命名だったのである)

 古代、日本のトイレは「水葬」だったのだ。

 李家正文が、自然と風土の地理的影響によってトイレも葬儀も「水葬、土葬、火葬、風葬(鳥葬)」といったスタイルが決まると指摘するように、日本の「水葬」も風土的関係でそうなったようだ。
 勿論、日本は古来から単一文化ではないから、日本全国のトイレが「水葬」であったというわけではない。
 日本には非常に多くの川があって処理しやすく、水が穢れを払う「禊」の力を持っているものだという古くからの考えがあったから、「水葬」の文化が数多く見られたのである(山の民だったら穴を掘って埋めただろうし、北国だったら北方文化の影響を受けて風葬にする地域もあった)。

 普段は意識にも上がらないが、日本人はとかく、水をよく使う民俗なのだ。
 毎日風呂に入り、食器を洗い、洗濯や車体の洗浄、撒水、工事用水など様々なものを「水の清め」によって洗い流している。また、これらの水はたいていは人が飲んでも問題のない「上水」なのだから、水の少ない国からしてみれば随分な贅沢をしていると思われるかもしれない。
 水洗トイレも事情は同じだ。ウンコでもオシッコでも水は流すし、最近はウォシュレットでも水を使うようになった。

 李家正文も本書で「春の降水量がすくないと、夏を前にきっと水不足があらわれる。東京ではしばしば東京砂漠を現出する。水が多いといわれた日本に水不足とは妙な現象ではないか」と指摘しているが、斯様に日本人は水を使いすぎなのである。

 因みに「水葬」ではない文化圏のトイレとなると、例えば寒くて乾燥した地域では腐敗臭がそれほど目立たないためか「風葬」にまかせて風化させたり鳥や獣が喰うに任せたり、という形で処理させていたものもあるし、砂漠の民は水が貴重なので砂に埋めたりしていた(因みに砂漠の民は身体を洗うにも熱砂を身体にかけて汗を拭い、食器なども熱砂で洗ったという)。

◆◆◆

 斯様に古代、ウンチやオシッコは日本では「穢れ」の一種だったわけだが、これがある時期から日本の農業を支える「金肥」に逆転した。

 これ何故なのか?――といった所に、日本のトイレット事情の大きな「謎」があるようだ。

 その理由は割と簡単である。日本の古代国家が稲作農業を推進したからである。
 こういう所で原田信男『日本人はなにを食べてきたか』と本書の内容がリンクしてくるのだ。

 屎尿を農業に利用する方法と言うのは稲作文化と共に大陸文化の影響として日本に入ってきたものなのだそうだ。
 日本では古代国家の命令として農事を妨げる事は「天つ罪」として罰せられた。そのため、肥料として利用できる貴重な農事の資源であった屎尿もムダにしてはならないとされたのである。

「天つ罪」の一つにあげられている屎戸(くそへ)の戸は充て字で、放る義であって、便所に糞まらないで、あちこちに屎を放り散らかすことであると考えると、すでに、糞を貯めて肥料とするなど屎尿が貴重なものであったろうことがわかり、いたずらに汚い糞の行為ばかりでなかった。糞をためないことは、農事妨害の罪と考えられてきたことが知られる。

『図説・厠まんだら』・李家正文「トイレットの生活文化〔日本篇〕」より引用

 つまり、日本ではもともと屎尿を「穢れ」と考える見方がスタンダードであったものの、稲作農耕を推進する国の政策によって、屎尿を肥料として大切に活用する文化にシフトさせられたというわけである。

 だから、農家などには古い風習として厠神、便所神を祭るという例も見られる。
 栃木県小山市には出産時に便所で行うセッチン祭りというのがあるし、宮城県栗原郡にはお正月に便所に飾るオヒナサマ、宮城県登米群にも小正月に便所に飾るオフンドウサマというのがある。

宮城県栗原郡栗駒町文字下のオヒナサマ、お正月に便所の外に飾る

 中国にも紫姑神という女神が厠神としてあるので、もしかしたら日本の厠の神も大陸文化の影響として来日した文化なのかもしれない。日本にも、便所に美しい女神があるという伝承も残っているのである。
 日本の場合、この便所の女神は難産から守ってくれるというのが特徴としてあるそうだが、これもやはりお産の穢れが排便の穢れと近い意識がそういう伝承を生んでいるのかもしれない。

 日本では、このようにウンチやオシッコを「穢れ」とする見方と「聖なるもの」とする見方との、奇妙な混乱が見られるのが面白い。

 屎尿を「聖なるもの」とするのはやはり農村部に多いようで、都会人や武士などには「穢れ」のような感覚が見られる事もあったようだ。
 厠を「ご不浄」と汚らしいニュアンスにした呼び名があるのもこのためであろう。

 特に、武士にとっては便所はいろいろと不安が付きまとう場で、暗殺なども便所で行われる事がしばしばあった。排泄行為というのは何しろ無防備になるものだし、狭い便所だと刀も振り回せないので、とっさの攻撃をかわしにくいという事も不安を煽った。

 本書のグラビアにある桂離宮の御厠は一坪という広さを持っているが、こらくらい広くないと不意打ちに対応したり、刀を振るったりという事ができないという意識があったのではないかと想像させられて面白い。武田信玄の作った厠も、刀の抜ける広さを持っていたのだそうだ。

桂離宮の御厠(本書グラビアページより)

 武家屋敷の厠や風呂場などは、天上に忍びの者が隠れるスペースを作らないために天井板がなく、見上げれば屋根の裏板がそのまま見られるという作りになっている所もあったという。

◆◆◆

 日本においてウンチやオシッコを肥料としてリサイクルする方法は、もともと大陸から学んだもののようだが、日本ではこれを洗練させて江戸時代には完全なリサイクル・システムに昇華させていた。

 どれくらい完全だったかと言えば永井義男『江戸の糞尿学』に詳しいので興味のある方はご一読をお勧めする。
 江戸時代は人糞を農家が買い上げて畑の肥料にし、出来た作物を江戸に持って行ってまた人糞と交換してもらうというサイクルが完成されていたのだ。

永井義男『江戸の糞尿学』

 二次大戦後、日本が人糞をリサイクルせずに処理する途を選んでから農地の生産力は次第に低下していき、農林水産省が「地力増進法」を制定して地力回復の処方箋を作らねばならなくなったという言われるほど、かつての日本の人糞リサイクル・システムは円滑に動いていたのである。

 そもそも、人糞を下水に流して廃棄したり処理したりするという発想は西洋のものなのである。
「下水」というものは、人糞を「隠し」、清浄な生活空間から拙速に切り離す考え方の元に作られたシステムだった。

 江戸時代にポルトガルから日本に来たフロイスは「ヨーロッパでは、馬糞を菜園に、人糞を塵芥捨場に捨てる。日本では、馬糞を塵芥捨場に、人糞を菜園に捨てる」と彼我の違いを指摘したという。

 西洋人のほうが糞尿を「穢れ」的な感覚で見る傾向が強いようなのだ。

 だから、日本が人糞を、人が食べる野菜を作る畑に撒いて、畑から異臭が漂ってくる事に強い違和感を抱いたそうである。

 人糞を「金肥」とした日本は、「川屋」として離れに存在していた便所も、いつしか生活空間と非常に近い位置に置かれるようになった。
 と言う事で、西洋人からしてこれも違和感のある事だったようで、ブルーノ・タウトなどは「美学的にこれほど洗練されている国民でありながら、殆どどこの家でも居間にまで厠臭が漂ってくるのは実に訳の判らないこと(ブルーノ・タウト『日本の家屋と生活』より)」だと述べているようである。

 こうしてかつての日本を訪れた西洋人らの証言を聞いていると、もしかして昔の日本人は、便所の臭いというものはさほど気にならない体質になっていたのだろうか?とも疑問に思えてくる。ほんと、どうだったんだろうか?

 江戸時代の人糞リサイクル・システムは、人糞を無駄なく肥料として使う非常に優れたシステムであったと言えるかもしれないが、まだまだ改善の余地は多くあり、現代の視点から考えれば欠点と思われる部分も少なからず存在した。

 勿論その一つとして西洋人が違和感を抱いたような「厠臭」というものも挙げられる。

 これが臭いだけだったのならばある程度臭覚の慣化というのが働くが、問題となったのは、貯められた人糞から発生する腐敗ガスのほうであった。
 江戸時代は今では想像も付かないほど眼病が多かったそうだが、その原因の一つが便所から出る腐敗ガスであったという。このガスが人々の目を傷をつけたのだ。
 この影響は馬鹿にできないもので、幕末に来日したポンペも長崎で調査した所、住人の8%が酷い眼病にかかっていたそうで、日本ほど眼病患者の多い国は珍しいと驚いたと言われている。(江戸時代の病気事情などについては鈴木昶『江戸の医療風俗事典』に詳しい)

 かつて寄生虫が日本の国民病だったのは、人糞を肥料にして野菜を育てていたために広まったと言われている。これも人糞リサイクル・システムの弊害の一つだった。

 しかし、人糞を肥料とするのは非常に効率が良くてエコな考え方であり、世界的に推進されているSDGsの考え方ともマッチしているだろう。

 人糞が畑の肥料になるというのは、人糞にかなりの栄養分が含まれているからなのである。

 カナダの公衆衛生学者ディビッド・ウォルトナー=テーブズは栄養の点から見て、人間は人糞のみを食して生きていく事ができるだろうという推測を立てているそうだ(ただし、それには大量の人糞の摂取が必要だが)。
 豚が人糞を食べたり、川に落ちた人糞を魚が群がってついばんだりするのも、人糞に栄養があるからに他ならない。沖縄や中国などでは、家畜の豚に人糞を食べさせるタイプのトイレ方式もあったほどである。

豚小屋兼トイレ「豚便所」

 そんな栄養価の高い資源を、ただ単に廃棄処理するというのは勿体ないとは思えないだろうか。

 人糞は大地に埋もれれば分解されて植物の栄養となる。
 自然にとって栄養であった人糞を、人が特別に処理を施さねばならなくなったのは、人が増えすぎたためだ。

 人が増えて排出される糞尿が増えると、バクテリアもそれを分解しきれず、人糞は腐敗されるがままになる。
 それは病原菌を発生させ、地域を汚染させる原因となってしまうのである。

 李家正文によれば、水洗トイレによる公害は、既に17世紀には欧米で発生していたそうである。
 例えば、ロンドンはテムズ川へ下水を放流する事によって腸チフスやジストマ卵、コレラなどの伝染病が流行するに至った。パリのセーヌ川の汚染も同じように下水からによるものであった。
 マルクスも「ロンドンでは、450万人の糞をテムズ川に、莫大な費用をかけて流している。汚すことに使っているだけで、よい方法を知らない」と言っている。
 ますます人口が増えていくにつれ人糞処理は、西洋人の頭を悩ませ続けてきたのだ。

 日本も、第二次大戦後には人糞を海洋投棄するようになってから、海の汚染による海洋資源の汚染が社会問題化したのである。
(近年も東京オリンピックでトライアスロンに使われたお台場の海域が、大腸菌が水質許容基準の上限の20倍、便大腸菌が上限の7倍も検出された、というレベルまで汚れていた事を思いだそう)

 なぜ日本はこうも、西洋の文化を悪い所まで真似してしまうのだろう?「下水処理」は、それほど良い文化だったのだろうか?

 明治初期に来日したモースは、日本人が人糞を畑の肥料としている事について、英語国民は頭からバカにしているし、日本人も感覚が鈍っているのではないかと言う一方、この汚物処理方法にはムダがないと事を指摘している。

 もうひとつたいせつなことは、アメリカ人をなやます病気が、ここではみられない、ということである。アメリカ人がいくら汚物処理に努力してみても、きたない地下室や地下の下水管で、病原菌のいっぱいの入り江をつくることになり、あまり効果があがっているとはいえない。日本には、こういったものはないのである。

エドワード・S・モース『日本のすまい――内と外』より

 日本人は、かつて粗末にすると「天つ罪」として罰せられた「金肥」である糞尿を、いつしか西洋人と同じように強い「穢れ」のものとする意識に変えてしまったようである。

 江戸時代には完全に整えられていた人糞リサイクル・システムというものがあったにも関わらず、日本はそれをむざむざ手放してしまった。
 問題がなくはなかったものの、現代のテクノロジーを用いれば、多くの問題点は克服して行けたかもしれないというのにも関わらず、である。

 しかし、国内の農業を守らず、今も多くの農家や酪農家を廃業に追い込んでしまっている昨今の日本の政治の事を考えると、かつて「聖なるもの」であったウンチの復権は、もうムリな事なのかもしれない。
 かくて日本の政治家による「不都合な事は見ない事にする」「キタナイものは、拙速に視界から切り離す」という、西洋「下水」的思考はますます強まっていくのであった。

〇参考文献(『図説・厠まんだら』以外のもの):

・原田信男『日本人はなにを食べてきたか』

・永井義男『江戸の糞尿学』

・ロジェ=アンリ・ゲラン『トイレの文化史』

・鈴木昶『江戸の医療風俗事典』


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?