見出し画像

宝はゴミかゴミは宝か

久しぶりです。
最近、価値観の違う2人が話しているのを見ているという時間を経験しました。
お互いに自分の価値観を主張するだけで、全く前に進まず、なにかしらのエクスペリエンスに繋げるしか私にとっての価値になりません。
一人一人異なる価値観を持って当然ですが、
時にそれが壁となり無駄な時間が育まれるので、改めて整理してみようと思います。

価値観について

今日話したいことはこれだけ。
例えばものすごく「懐かしいなにか」「昔ながらのなにか」「昔から使っているなにか」を大切にしている人がいたとしよう。
その人に「捨てよう」ということは容易だ。
ただしその人が納得するかどうかは別だ。
大切にしているものを「捨てよう」と言われて気分の良いものじゃない。
では後ろに「雑巾」を付けたらどうだろう?
「懐かしい雑巾」
「昔ながらの雑巾」
「昔から使っている雑巾」
昔ながらの雑巾以外はそろそろ捨てそうな状態に仕上がってしまった。
昔から使っている雑巾なんてもうただの糸屑で、すっごい臭いかもしれない。

ではここに「愛着のある」を足してみよう
「愛着のある懐かしい雑巾」
「愛着のある昔ながらの雑巾」
「愛着のある昔から使っている雑巾」
どうだろう。
愛着があったらゴミから何かに変化しただろうか?
これが

価値観の正体

ではないか?

価値観とは「その人が愛着があるが故に捨てられない物」ではないだろうか?
では問いたい。

本当にそれは必要か?

そんなもの人によって異なって当然だ。
大切なものなんて目線で変わる。
例えば、自分の大切な人が最期に作ってくれたものならどうだ?
それでもゴミだと言う人は居るだろう。
ただ蔑ろにして良いものではないはずだ。
ただし、同じものが沢山になった瞬間、大半の人からはゴミ山にしか見えない。
ゴミ屋敷に住んでる人間がそうだ。
いかに自分にとってひとつひとつが異なり、価値のあるものかを理解してもらう必要がある。

もう一度聞く

それは本当に必要か?捨てるか?

残すなら、残すだけの価値を
捨てるなら、捨てる程度の価値を
お互い押し付けずに、周りに理解を得て
相手を受け入れることが必要ではないだろうか。
どちらかが一方的に押し付けてしまう事で
片方はゴミだと主張し、片方はまだ使えるとか昔から使ってたから使いたいとしかならない。
知らないからこそ無駄な衝突が生まれるのだ。
これはゴミをその人にとっての宝だとちゃんと説明できない側にも責任があるし、
その人の宝をゴミだと理解しようとしない側にも責任がある。
どちらかが受け入れずに主張だけしたのでは価値観なんて合うはずがない。
要はカスみたいな議論が生まれ、誰も幸せにならない時間になってしまう。
「感情的な話」がそのカスの集合体だ。

カスだのゴミだのと言ってしまったが、価値観が合わない中で自分以外から見ると「ゴミに見えている」事を忘れて感情的になることで
なんの生産性もない不幸な時間が生まれていることを忘れないでほしい。
それがゴミか宝かなんて、私の価値観ではどっちでも良いし、その議論をカスだとすら感じている。
周囲のエンゲージメントが下がる理由は、こういったカスから来るものだと気付いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?