「方舟」ショート×ショート(1568文字)

ーカラン、コロン。

喉を滑り落ちていく。その感覚だけが、頼りだった。

六畳一間。猫の額ほどのスペースで、俺はほとんどの日々を過ごす。朝から、乱暴に吹き付ける雨が、今にも崩れ落ちそうな窓をガタガタと震わせている。土壁に貼ってある、区役所からもらったハザードマップには、荒川区を中心とした下町が、ドラマで観るような刺し傷のように、郊外へ移るに従って、赤から色を薄め、東京全域に染み渡っている。一際、傷の深い真っ赤な傷口に住んでいるのが、俺の家の辺りだ。

「カラン、コロン」

もう一度、口に出してみた。俺の腹が笑いを堪えているので、小刻みに震えていた。どうして、こんなことをずっと呟いているのか。それは、すごく、すごく、簡単なことだ。先ほど、ごみ箱に向かって投げた、缶ビールが、カラン、コロン、と見事な音を立てたのだ。まるで漫画の擬音のように、忠実に鳴った正解の音が、頭の中でしつこく繰り返されている。カラン、コロン。くっく。

―現在の荒川の様子です!連日の異常気象で降り続いた雨に、許容量は既に限界に達しています!最悪の場合、決壊の可能性もあります!どうか、住民の皆様、落ち着いて行動をしてください!現在、避難勧告が出ている地域は以下の通りです………

落ち着くべきは、お前なんじゃないかい。テレビから聞こえるアナウンサーの声が、六畳間に虚しく反響する。災害状況を東京の上空からヘリコプターで伝えているのに、どうしてそんなに焦っているのだろうか。カラン、コロン。横たわった俺の背中の畳が、湿気をたっぷりと含み、ずっしりとした重みを持っていた。俺はずっと寝そべりながら、ここにある缶ビールの束を飲み続けている。これも考え抜いた結果だった。少しでも都内の水分量を減らそうと、身体に流し込んでいるのだ。けれども、尿意が尋常じゃない。こればっかりは、大誤算。カラン、コロン、という訳だ。

天井から、中継ヘリの地響きが聞こえた。天井に出来た染みが端の方から手を伸ばすようにゆっくりと広がっている。時を刻むように優しく落ちていく、一滴、一滴が、なぜか心地が良かった。部屋に積まれた、本の山。その一箇所に、ぽつり、ぽつり、と落ち続けている。滴る雫の先を、俺は追った。

積まれていたのは、…文芸誌だった。

五冊も同じ号が、積み重なっている。

「小説夜明け新人賞、発表」

―カラン、コロン。

…あの音が、どこからか聞こえた気がした。

「カラン、コロン」
 

とうとう、笑い声が漏れた。だが、可笑しいのではない。

悔しさで。決壊しそうだった。

数時間ぶりに起き上がると、パソコンに、何も書かれていない真っ白な画面が映っている。生み出される、言葉を待つように、カーソルが点滅をしていた。

「カラン、コロン」

それは、どんな音だっただろうか。それを、忘れたくなかった。忘れることなんて、ずっとできやしなかった。強い風が、窓を激しく揺らす。祝福の鐘が鳴り響くようだった。きっと。きっと。カラン、コロン。俺は、キーボードを強く、確かに、叩き始めた。今までのすべてを洗い流す、新しいいのちが、頭の中に流れ込み始めた。

―あぁーっと!今、土手の一部が崩れ落ちました!住宅街に、一気に!ああぁ!流れ込んでいきます!大量の土砂が、人々の生活を呑みこんでいきます!避難は完全に済んでいるのでしょうか………

担当編集からの、メッセージが鳴った。数か月振りの連絡だった。ひょっとすると、また仕事の話を頂けるのかもしれない。

―大丈夫ですか。避難してることと思いますが。念のため。また期待してます。

俺は確認すると、スマホをゴミ箱に投げた。

「カラン、コロン」
 

もちろん、大丈夫だ。きっと俺は、ここで、この機会を待っていたんだ。何度も、何度も挫けたが、今回こそは、きっと。きっと。まだまだ、これから。

背後で、おぞましい物音がした。

ーカラン、コロン。

この瞬間を、待ちわびていた。

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